唐桃

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夏の離宮(三)

 日が少しずつ高くなり、木陰の下にあった池沿いの道にも日の照り返しが眩しい。軍師は上機嫌でクラトスを脇において、のんびりと道をたどる。
 池に沿った道は真北で離宮へと向かう広い道と分かれる。西沿いは、今までのように平らな石をきっちりと敷き詰めた歩道とは異なり、荒い丸石を並べたものとなる。
 周囲の自然溢れた趣に合わせて、池の周囲に作られていた石造りの柵やところどころに作られた露台などもなくなる。池の岸まで葦が茂り、土のにおいが漂ってくる。ひたひたと岸に打ち寄せる水の縁には、水草が浮かび、少し離れた深みの場所には睡蓮のたぐいが花をのぞかせている。
 ほどよい間隔で植えられた柳の大木が涼しい陰を作り出し、その根本には夾竹桃やヤツデのつややかな葉が光っている。離宮となる前から存在していたであろうケヤキの大木やイチョウの木がその奥に続き、どこまでが離宮の庭でどこまで自然の山なのか区別がつかないほどであった。
 クラトスもさきほどまでのいかにも王宮に相応しい荘厳な佇まいの離宮への道とは異なり、故郷にも似た鄙びた雰囲気にほっとする。
「どうだ、クラトス。こちらの方がずっと趣きがあるだろう」
 少し肩の力を抜けたらしい武官の姿にユアンは声をかける。
「このあたりは、離宮として整備されるまでは湿地であったらしい。その名残で、途中にいくつか橋が渡され、小さな小川が流れ込んできている。そのおかげで、夏も水が枯れず、満々としているのだそうだ」
「そうなのですか。あの、このようにきれいではございませんでしたが、私の故郷にも川が多く流れておりまして、少々懐かしい心持がいたします」
「そうか。確か、お前の故郷は南東の方だったな。川や、それに沿って運河が作られ、米も多く収穫できるそうだな。あちらの方はまだ視察に行ったことがないが、夏の田は緑の海のようで大層美しいと聞いている。いずれ、お前と一緒に行ってみたいものだな」
 軍師の言葉に、青年は嬉々とした声で答えた。
「もし、お出かけいただけますときには、私が気に入っております場所をご案内させていただきます」
「そのときは頼むぞ」
 ユアンの言葉に深く頷いていた青年は、それでもきちんと周囲に目を配っていたようで、突然足を止めた。
「こちらの小さな木道はずいぶんと古びておりますが……。誰か、こちらにこい。この場所は奥まで行って確かめてきたか」
 クラトスがくるりと後ろを振り向いて呼び出せば、たちまち、背後に付き従っていた兵が走りよってきた。
「ああ、これは懐かしい」
「ユアン様……」
 軍師は制止する若い将軍の声は全く気にせず、ふらりと足を踏み入れた。
「これは先代の皇帝陛下がお気に入りで、ミトス皇帝陛下が幼い頃には家族で舟遊びをされるために使われてたという桟橋の名残だ。私も皇帝陛下にご一緒させていただいて、この先から小舟に乗ったことがある。だが、朽ちてきたのと、少々警備に不便なこともあって、西側に桟橋を新たに作ったのだ」
「ユアン様、朽ちている木道は危険です。お待ちください」
「心配するな。どこが痛んでいるか、知っているから私は大丈夫だ」
 ユアンは軽い足取りで葦の茂みの奥へと消えた。
「ユアン様! どちらへ」
「心配するな、クラトス。すぐに戻る」
「お待ちください。私もそちらへ……」
「クラトス、こちらに来るな」
 軍師の声が届く前に足を踏み出したクラトスは、半分腐っていた小さな桟橋の板を踏み抜き、池へと滑り落ちた。
「クラトス、だから止めただろう。お前が胸当てだけでも甲冑をつけていたら、この桟橋では支えきれないに決まっているではないか。まあ、これで全部を始末できるな」
 軍師は噴出しながら、クラトスが踏み抜いた桟橋の淵に残った細い枠の上を軽い足取りですいと近づく。クラトスは憮然とした面持ちで池の中から顔を出した。
「おい、大丈夫か。お前達、クラトスを引き上げてやれ。それから、館の者に、私の部屋を開けて、着替えと湯の準備をするように伝えろ」
 部下の手助けで、滑る岸からどうにか這い上がったクラトスは全身から水を滴らせている。
「クラトス、そのままではまずいから、一度館へ戻って着替えろ」
「いえ、夏ですし、歩いていれば乾きます」
「行軍しているわけではない。それに、水が滴るクラトスは魅力的ではあるが、さすがに視察にさしつかえるであろう」
 軍師はくすくすと笑いながら、まだしかめ面をしている青年武官を宥め、自ら先にたって離宮の方へと歩き始めた。足元にたまる水溜りに、クラトスもそれ以上の文句は言わず、おとなしく館へと戻り始めた。
 すでに高くなった日に乾く白茶けた道の上に、クラトスの甲冑から滴る水が点々と筋をつけ、背後でキリキリとヨシキリの鳴く声がした。陽光に揺らぐ離宮の入り口をまっすぐに見つめながら、クラトスは今日の視察がすでに予測のつかないものになったことに愕然としていた。先を歩く軍師はそんな恋人の悩みなど全く意に介せず、思いもかけない機会に足取りも軽い。
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