唐桃

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夏の離宮(二)

 池に突き出すように造られた露台からの眺めは噂に聞く以上の美しさだった。なるほど、これなら皇帝陛下が好んで夏にはこちら訪れるのも頷ける。
 高く作られた露台の周りは、蓮の柔らかな緑の葉と薄桃の花で埋め尽くされている。その先に広がる水面は、風もなく鏡のように静かで、初夏の青空を寸分たがわず写しとる。カリツブリだろうか。数羽の雛を連れた水鳥が葉陰から現れて、すいと向こうの葦の陰へと消えた。その動きがゆっくりと鏡面を揺らがし、それにつれて映る空もゆらりと輝く。
 煌めくの水面の空よりもくっきりと青い麗人の髪が夏装束の上にはらりと流れ、優雅に足を組んだその人は、池の遠くを見やる。クラトスは入り口に膝をついたまま、天上の世界とも見まごうその景色を眺めていた。
「どうした。こちらに入って、池の周囲を検分したほうがよいぞ」
 軍師はクラトスの様子に気づいて、彼にだけ分かる優しい笑みを送ると手招いた。
「上から見下ろせば、また近くからでは分からないことも見つかる。こちらに来て、そこに座れ」
 軍師は自分が腰を下ろしているすぐ隣の席を指し示した。
「それでは、失礼いたします」
 月照亭と呼ばれる東屋は二層の屋根を持ち、八角の形をしている。腰までの高さの壁がぐるりと回り、内側には壁にそって数名が座れる長椅子が置かれている。中央には、肌色を基調とした縞模様の入った大理石の卓とおそろいの石の椅子がある。
 軍師は中央の卓に寄りかかるようにすわり、池を眺めている。クラトスは深く礼をとると、軍師の横にある椅子へと座った。背後の東屋の入り口には部下が四名、警備のために立っている。もちろん背を向けて外を見張っているのだから、こちらを見られているわけではないが、職務に集中しなくてはいけない。クラトスは軍師ばかりを見ないようにと、池の奥へ目をこらした。
 そんな彼の気持ちなどお構いなく、軍師は嬉しそうに身を寄せてきた。肩が今にも触れそうになり、武官は軽く息をのんだが、軍師はそれをちらりと横目で見てくすりと笑った。
「何を緊張している。私の隣にいるからといって気にするな。普通に振舞え」
「は……」
 何か言えば、声に今の自分の気持ちが出てしまそうで、クラトスはただ頭をさげただけだった。軍師はその様子につまらなそうに息をついた。互いの意志を確かめ合い、共にと誓い合ったばかりだ。せめて、もう少し甘い雰囲気を望んではいけないのだろうか。
 二人でこの景色を楽しもうと、クラトスをこの視察に連れて来たのだが、大層生真面目な恋人はそんな都合のよいことは思いもよらないようだ。有能な新進気鋭の将軍が職務に忠実であることは、帝国にとっては確かに喜ばしいことであるし、クラトスが公私混同を喜ばない潔癖な性質であることもよくわかっている。
 彼も恋人を困らせのは本意ではないから、しかたなく、検分の真似事はする。
「ほら、あそこに見える木の桟橋から小舟で遊ぶことができるのだ。陛下はことの他、この池がお気に入りで、以前は自ら小舟を漕ぎ出して遊ばれたものだ。私もたまにはご一緒させていただいている」
 軍師がクラトスが気づかなかった池の東側を覆っている葦原の中ほどを指差す。
「あそこは気づきませんでした。のちほど、桟橋の状況も見てまいります」
「それなら、私も一緒に池を眺めながら、出向こう。どうだ。こんなに眺めのよい場所だ。私と一緒に歩いてもよいだろう」
「え……。は、はい」
 にっこりと微笑みながら尋ねると、クラトスはその言葉の意味に困惑したかのように口ごもり、しかし、目は彼に釘づけになったままだ。その表情に軍師の理性はたちどころに半分ほど消えた。
「よいのだな」
 声を潜めて、さらに体を寄せ、クラトスの手を握る。いきなりの軍師の動作に、クラトスは振り払うこともできず、されるがままになりながら、硬直したまま、顔を赤くした。
 しばらく、握りこんだ手をやわやわと指をからめて弄ぶ。職務に忠実なはずの武官は石像のように動かず、息まで止めているようだった。やがて、苦しそうに長い息をもらして、椅子の上で身じろぎする。
「ユアン様……」
 虫が鳴くような細い声で名前を呼ばれては、もうたまらない。軽く色づいた頬に口付けを与えれば、武官はようやく正気に返ったようで、慌てて身を離す。そのとたんに、石の卓に腰に帯びている剣がぶつかり、静かななかに甲高くカチャンと金属音が響いた。
 その音に飛び上がるように立ち上がったクラトスを見て、笑いをこらえた。あまりからかって、この一日を警戒されて過ごすのもつまらないから、一緒に立ち上がる。それに、二人きりで歩きたいから、クラトスが部下の中へ逃げ出す前に、邪魔な者を片付けておかなければならない。
「では、池の周囲の検分に行くとしよう。管理の者には後で話を聞くから、離宮の部屋で待っているように伝えろ。私はクラトスと話があるから、間をおいて、警備するのだぞ」
 ぎくしゃくと歩き出すクラトスの背を押して、軍師は池の周回路へと降り立つ。まだまだ、昼までには時間がたっぷりある。楽しい散策になりそうだ。
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