唐桃

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夏の離宮(一)

 王都から北に十里ほど離れた場所に夏の離宮がある。第五代皇帝が体の弱かった皇妃のために作らせたといわれるその離宮は、広大な池をぐるりと取り囲むように庭園が造られ、池を見下ろす北側にある丘の斜面に館が建てられている。
 いつの頃からか、真夏の数週間をこちらで過ごすことが皇帝の習慣となり、今では恒例行事の一つと化している。王都が夏祭りで賑わった後、最も暑い時期を、皇帝は一族を引き連れて移動する。その間は、政も離宮で執り行われ、一部の有力な貴族達も皇帝のお側に仕えられるようにと、離宮脇に建てられた別邸で過ごす。


 軍師は、皇帝が入る前の状況視察のために、王都警備軍と共に離宮へと入った。王都警備軍の長であるクラトスは、一部の兵を連れ、前日に王都を出ると、あらかじめ道中に問題がないか、道々を再度確認しながら、先に離宮へと赴いた。
 翌朝早々に、皇族でもある軍師の周囲は第一近衛師団から派遣された精鋭の兵が固め、王都警備軍に前後を守られ、仰々しく移動する。軍師はいかにも退屈そうな顔をしながら、愛馬に揺られて、離宮へと入ってきた。
 夏祭り直後の、まだ夏に入ったばかりのその日は、日差しが強いとは言えども、真夏ほどの暑さはなく、爽やかな風が吹いてくる。白い石で作られた見事な彫刻の正門を過ぎると、クラトスが率いる王都警備隊の第一部隊が一行を待ち受けていた。ひらりと馬から降りた軍師は、膝をついて礼を取るクラトスの前へと歩く。
「ユアン様、お疲れ様でした。まずは、離宮のお部屋で本日のご予定についてお話を……」
 クラトスが型どおりに話し始めるところを軍師は構わず遮る。
「クラトス、館は後回しだ。この程度の移動で疲れることがあろうか。時間がもったいない。例年、することは同じだ。部屋での休息と説明は不要だ。昨日から、何一つ予定は変わっていない。まずは池の周囲から見るぞ」
 軍師はそのまま、正門奥の館と池に通じる中門へと歩き出す。クラトスは背後の副官に慌てて館の中で待機している管理人をこちらへ呼ぶようにと伝え、軍師の後を数名の部下と追う。
「ユアン様、お待ちください。ただいま、館にいる案内の者を呼びます」
「池の東北端にある月照亭につれて来い。あそこの方が館の中より眺めもよいし、この刻限には涼しい。池も見渡せるし、都合がよい」
「準備がまだ整っておりませんので、お待たせするかもしれません。ユアン様……」
 軍師は相変わらず歩みを緩めず、さっさと何度も訪れている離宮の庭へと入っていく。クラトス達もその後を遅れないようにと、ついていった。


 良く手入れされた庭は、初夏の花が咲き乱れ、芳香が漂う。そのなかを花よりも艶やかに輝く髪を靡かせて歩く軍師の後ろ姿をクラトスはうっとりと見つめながら後ろをついていく。軍師は白とも見えるごく薄い水色の地に蓮の実の文様を濃い緑で刺繍された旅装だった。長い髪がふわりと風に舞えば、先に見えるアカシアの甘い花と貴人が身に纏っている香が入り混じった。
 夏祭りの夜に、この方と誓い合った。ほんの一週間前のことだ。今でも本当のできごととは思えない。前を行く軍師の品のよい香が彼の周りを巡り、その胸の中にいたときを思い起こさせた。とたんに、かの方の腕に絡めとられるままに溺れていた、気が遠くなるほどの悦びが蘇り、クラトスは息を詰めた。
 今日は皇帝陛下をお迎えする前の検分に来ているのだから、気を引き締めてかからなくてはならない。個人的なことで雑念を浮かべている場合ではない。数ヶ月前に昇進したばかりの若い将軍は、こちらに来る途中も何度も繰り返していた今日の予定を、再度頭の中で点検した。最も予測できない因子は彼の前を歩いている大切な方だ。
 すでに最初から今日の視察として予定されていない行動をされている。フォシテス将軍からあらかじめ苦笑まじりに教えられていたが、その通りだった。しかし、涼しい午前中に庭の視察を終えていただければ、予定よりも早く館で休んでいただけるだろう。館の内部も、クラトス自身と部下達ですでに昨日のうちに確認はしているから、ユアン様のお手をわずらわせることも少なく、今日も早めに帰還していただけるかもしれない。
 クラトスは無駄になることも知らずに、今後の予定を頭の中で練り直しては、吟味する。
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