唐桃

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祈り

 新しい任務で気ぜわしい日を送っているうちに春は過ぎた。クラトスの秘めた期待は裏切られ、その後、あこがれの軍師の姿を見かけることはなかった。
 最初の月は、前任者や部隊内の慣れた者と宮殿内をくまなく回るだけで過ぎた。大まかに兵の配置や気を配る箇所が分かれば、再度、人数配分や兵の交代について検討を始めた。
 新たに与えられた部屋は千壇宮の側にある広い部屋であった。二部屋続きの手前の部屋には四人の副官が詰め、クラトスは奥の部屋で執務をとる。以前と違い、部屋の窓からは、回廊や建物がぐるりと目に入るだけで、中庭には奇妙な形をした岩がおかれている以外、何もない殺風景な造りだった。クラトスは時間があれば、杏の木でも植えるように庭師に頼もうとぼんやり思った。
 初夏の気だるい風が部屋へと吹き込む。フォシテスからの指示でクラトスは王宮の図面上のに警備配置について記していた。すでに、部下達が書き込んだそれを丹念に端から確認する作業はいささか単調であった。
 今日中に仕上げる必要はない。体でも動かそうと、クラトスは日課としている警備の確認へと立ち上がった。
 代々の皇帝の御霊屋となっている北の極瞑殿は、人影少なく、宮殿内の警備には細心の注意を払うクラトスにとっても、あまり気を回さない場所であった。だが、兵を配置してある場所は常に巡回するようにと心がけている律儀な彼は、半分は人のいない涼しさを求めて、一月ぶりに足を踏み入れた。
 門の守備兵はクラトスを見れば、黙って頭を下げた。
「何か変わったことはあるか」
「特にございません。あ、そういえば、さきほどよりユアン様がいらっしゃっておられます」
 いつもであれば、そこで引き上げるのだが、その名前を聞けば、彼は静かに門の中へと入った。これは警備のためだと、頭の中で言い訳をしながら、自分で苦笑した。認めねばならない。あの杏の木の下の出来事以来、お見受けすることがなかったあの方を目に入れたいのだ。
 歴代の皇帝とその家族の墓所は、仰々しく、しかし、寂しい場所であった。あちらへ旅立ってしまえば不要であろう華麗な装飾や凝った造りの扉は、訪れる人もいないまま、相も変わらず丁寧に維持されている。最初は広々と開いた土地の真ん中に作られていたであろう御霊屋は、代を重ねるうちに両側へと広がっている。
 新しく作られたらしい墓所が並んでいる方へと静かに進んだ。御霊屋の合間に植えられている柳の木が、ゆらりと枝を揺らし、先にある建物へ影を落としていた。その見事な柔らかい緑の枝が重なる奥に、クラトスがすっかり心を奪われている鮮やかな青が見えた。
 軍師はいつものような凛とした姿からは程遠く、今日の生暖かい風に溶けてしまうかのように、頼りなく立っていた。いつもなら感じる鋭い気配もなく、遠くからも分かる弱々しい背中にクラトスの胸はどきりとした。
 頭を垂れて立っている後ろ姿に、クラトスは立ち止まった。あそこは真新しい墓所だ。おそらく、大層仲が良かったとお噂のマーテル様の墓に違いない。墓所の前には、亡き姉を非常に慕っていたと伝え聞いている皇帝が贈ったものだろうか、この季節には珍しい花や見事に整えられた食器類などがところ狭しと飾り付けてあった。
 すでに亡くなられたと聞いて四年はたっているだろう。だが、いまだあの方の心はここに囚われているのだ。心の中にちらりと湧き上がるほろ苦さに自分でも驚いた。すでに地下の住人となった方へなんという冒涜だ。しかし、麗しい軍師の微動だにもしない後姿に彼の深い想いを感じ、クラトスはそれだけ想われることがあれば、自らが地下へ入ってもよいとさえ考えた。
 こんなことを考えているようでは、警備のためとの言い訳も使えない。己の心の卑しさにあきれ、最愛だった方への祈りを邪魔しないようにと、そっと離れようとすると、彼の心を捉えている貴人がくるりと振り向いた。
「誰だ」
 険しいユアンの声にクラトスは足を止め、縮こまる。神聖な場所であの方の祈りを邪魔するなど、思い上がりも甚だしかった。自分の想いだけで行動したうかつさに舌を噛み切りたいほどだ。
「警備隊の隊長を任ぜられましたクラトスです。お邪魔をして申し訳ありませんでした」
 このまま、ここで死んでしまいたい。膝をついて頭を垂れ、悲壮な覚悟で答える彼の耳にユアンの声が届いた。
「何だ。クラトスか」
 ユアンはさきほどの険しい声が嘘のように、安堵したように答えた。何だったのだろう。しかし、クラトスを責めているようではない。ほっと息を吐く彼にユアンが近づいてきた。
「警備か。ご苦労なことだ。知らない気配だったので、つい、声をあらげてしまった。すまない。そうだ。お前も知っていよう。ここが妻だったマーテルの御霊屋だ。そんなところで遠慮せず、こちらに来て参ってやってくれ」
 そう言われて、断るわけにもいかないだろう。クラトスは恐る恐る立ち上がると、軍師の方へと向かった。
 軍師は彼と目が合うと、優しげにうなずき、御霊屋の前を指し示した。かの人が長い間佇んでいたことを教えるように、ほとんど燃え尽きた線香が風に揺らいで灰をこぼした。
 クラトスは御霊屋の前で拝頭すると、近くへとにじり寄った。所狭しと置かれた花のむせ返るような香が彼を包んだ。クラトスは墓の前に置いてある香の良い線香に火をつけ、名前しか知らない、だが、彼にとっては最もうらやましい高貴な方の死を悼み、しばらく拝んだ。
 彼の横で物思いに耽っていたように見えたユアンが突然たずねた。
「クラトス、お前はマーテルの死について何か聞いているか」
「いえ、あの、まだ郷におりましたときでしたので。急な病でお倒れになったとだけお伺いしております」
「そうか」
 それっきり、ユアンは口を噤み、またマーテルの墓所をじっと眺めている。その姿をすぐ横からクラトスは見つめた。さきほどの弱々しい雰囲気は消えていたが、いつものような力は感じられず、代わりに何かを求めるような眼差しで前を見ていた。
 この方は、冥界へ旅立たれた大切な人を思い出されているのだろう。自分ごときが邪魔をしてはならないと、静かに戻ろうとする彼の腕をユアンが掴んだ。
「一人でいるのはつらい。お前が急がないのであれば、もう少し、私の側にいてくれ」
 何を言われたのだろう。私のことがお邪魔ではないのだろうか。頭に血がのぼり、顔が赤らむことが分かった。だが、ちらりと横を見れば、そう言った麗人は、当然のごとく御霊屋に向かって静かに目を閉じていた。
 たまたま、いたから声をかけられたのに、逆上せあがってどうする。どうか、この胸の動悸がおさまり、自然に振舞えるまで、ユアン様が祈りを終えられませんように。半歩後ろにたちながら、クラトスは混乱する自分の感情を抑えようと必死になった。
 都合の良い己の勘違いであると言い聞かせながらも、軍師が自分に側にいてくれと願ったことを至上の幸福と感じた。クラトスは頭を垂れて、御霊屋の奥に眠る方へ自らの不敬を何度も謝り、そして、あこがれの方の心を癒せるものなら、そうなりたいと祈った。甘ったるい花の香が彼の周りを包み込み、身動きもままならなかった。
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