唐桃

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 クラトスは御前試合の直後、親衛隊の第一部隊長へと大抜擢された。王宮警備の要ともいえるその役を申し渡されたとき、彼は自分の力だけで得たことではないことに困惑した。フォシテス将軍にそのことを言うと窘められた。
「クラトス、皇帝陛下直々のお達しだ。断ることはできない。それに、何を謙遜している。あの場でのお前の判断は正しかった。最善だったぞ。それにだ、ここだけの話だが、陛下があの程度ごときでやられることはない。ユアン様のお助けなくとも、陛下に傷つけることなど普通の武器ではできない。光る剣をみただろう」
 クラトスも、普段遠くから拝謁する人形のように優雅な皇帝の思いもかけない強さを確かに見た。あこがれの軍師様もそうだったが、数万の大軍の先頭に立たれる姿が想像できるような強さだった。彼の剣士としての本能が、剣を抜いたあの二人の常人ではない能力を感じ取っていた。
 親衛隊の第一部隊といえば、後宮内部を除く主だった宮殿内の館の警備を担う部署であり、主に人の配置などの実務が中心とは言え、非常に責任の重い部署だ。わずか一年と少ししか王宮を知らない自分が務まるとは思えなかった。だが、心の中に別の期待もわいた。王宮警備の担当ともなれば、自ら、出向いて状況を調べなくてはならないことも多いはずだ。ひょっとして、後宮に近ければ、何かの折にあの方をお見受けすることも可能かもしれない。
 結局、フォシテス将軍に押し切られたクラトスは、大それた望みを抱いてはいけないと自分に言い聞かせながら、その職をいただいた。


 昇進してすぐ、太和殿にて皇帝自らが開く大掛かりな宴席が設けられた。東の端てに位置する半島がついに全て帝国の版図になったことを祝うその宴は、皇帝の姉が亡くなってからは初めてと言ってよい盛大なものだった。
 クラトスも末端ながら将兵達の宴席に連なり、様子も分からぬほど奥にある皇帝とその周囲の貴人達の席をぼんやりと眺めていた。このような席はそれこそご自分の婚姻の宴と皇帝の生誕祭以外には出席されたことがないと聞いていたから、軍師が現れるとは期待はしていなかった。
 おしげもなく貴重な蝋燭が灯された宴席のなか、突然、皆が静まったかと思うと皇帝とその背後にかの人がつきしたがって現れるのが目に入った。いっとき皆が沈黙し、次の瞬間、皇帝とまた広がった帝国への賞賛の歓声がわっと湧き上がった。
 予想外の人の姿を拝見できた信じられない幸せ。己が昇進できたことよりも、この席に列席できたことが幸運だった。あの方のお姿を、遠くとは言え、こんなにもすぐ拝見できるとは、思いもかけなかった。
 いつもだったら形式としきたりだけが重んじられる高位の人を大変だとしか思わないのに、高く設えてある席にいならぶ重臣達が今日だけは羨ましく思える。
 真正面に陶器の人形のようにも見える着飾った皇帝が座り、右横にまるで皇帝の后のように軍師が腰を下ろした。皇帝の左脇には、この度の武勲をあげたリーガル大将軍が立っており、二人が座れば、それが合図のように両脇の重臣達も腰をおろした。
 訳もなく、あこがれの方の隣に座る皇帝にまで妬ましさを感じ、そんな自分の感情を宥めるかのように、クラトスは差し出される杯を呷った。


 飲みすぎたこともあり、慣れない酒席に疲れ、夜更け前にクラトスは席を立った。
 ああ、遠目でもあの方が見られて良かったとささやかなできごとの幸福感に酔っていたからだろうか。いつもなら、まっすぐに与えられた部屋へと戻るところを、太和殿脇の小庭へと誘われるように足を踏みいれた。
 庭に人影は見えず、遠くから人々のさんざめく音がかすかに聞こえた。心密かにかの方に似ていると日頃から愛でている杏の木へと向った。
 ちょうどよい季節で、先日から杏の花が開いていた。見事に咲く白く大きな花から、涼やかな風にほんのりと優しい香が漂ってきた。枝も見えないほど咲き誇った杏の花の華麗さと、あの方を思い起こさせる香にうっとりと目を瞑っていると、かさりと人の気配を感じた。
 目を凝らせば、まさに想っていた当の貴人が木の前に置かれた自然石の上に腰掛けていた。真っ直ぐに零れ落ちている髪がふわりと風に柔らかく流れている。
 軍師は長い足を組んで、膝の上に肘をついて、体をやや傾けていた。
「お休みとは存ぜず失礼いたしました」
 まさかと思う人影に驚き、声が掠れた。慌てて退こうとすると、闇の中、白い花よりも艶やかに浮かび上がる整った面をほころばせて、軍師は彼に微笑んだようにみえた。
「よい。お前も涼みにきたのだろう。ちょうど花が満開でいい塩梅だ。お前もこちらで一緒に花をみないか」
 体を起こした軍師は、武人とは思えない細く形のよい手をがひらひらとふり、彼を招く。無礼のないように退出しなくてはならないと頭では分かっていたが、誘われるように足は前へと進み出た。
「こちらに座れ。なかなかよい眺めだ」
 深く頭を下げ、指し示された場所よりもかなり離れていると思えるところに腰を下ろした。
 ちらりと横目で様子をうかがえば、高くあがった月が白い花も麗人の長い髪も、香をたきしめた豪華な絹の正装にも降り注いでいた。確かによい眺めだ。ほろ酔い加減のクラトスは心の中でそうつぶやいた。
「クラトスと言ったな。この前の御前試合はよい判断だった」
「お褒めいただき、ありがとうございます。しかし、私がもっと前に取り押さえれば、ユアン様のお手をわずらわすこともありませんでしたが、申し訳ありません」
「おや、見えていたのか。あの動きの中でそれを見ていたとは、お前はなかなか目がよいな」
 軍師が驚いたように言った。
「他の者は皆、あの賊が足を滑らせたところをお前がひっ捕らえたと思っているぞ。その方が都合がよいから、お前の見たことは胸にしまっておいてくれ」
 軍師はいたずらを共有する友のように親しげに笑った。クラトスがぎこちなくその言葉に頭を下げると、いきなり励ますようにクラトスの肩を軽くたたいた。
「これからも、期待している」
「もったいないお言葉です」
 予想もせずに触れられた肩の熱さに胸苦しさを覚え、クラトスの声は震えた。軍師はそんな下っ端の反応など気にも留めていないのだろう。まるで、同僚にでも話しかけるかのように、やや身を寄せて指差した。
「せっかくの風流につまらない話をしたな。ほら、月が杏の木の縁にかかり美しいではないか」
「はい……」
 のどが詰まったようになり、クラトスはもうそれ以上答えられなかった。
 ああ、つまらない者だと思われるに違いない。しかし、気のきいた会話とは無縁の生活を送ってきた彼は、手の届かないかの人の横に座っていることに胸一杯になるだけで、何も思い浮かばなった。
 どれだけときが立ったのだろうか。ひんやりとした夜の気配が濃くなり、月は沈みかけ、ほとんど何も見えなくなっていた。クラトスは金縛りにあったように、貴人の横にまっすぐと座っていた。
 夜風にのって、軍師を探しているらしい下士官の声が聞こえた。
「そんなに緊張しなくてもよかったのだぞ」
 耳元でくすりと笑う声がしたかと思うと、温かい息遣いが感じるほど近くにユアンが身を寄せていることが分かった。クラトスは思わずつばを飲み込む。
「そういえば、昇進したそうだな。おめでとう。さて、下の者が呼んでいる。いかねば、あれらが陛下の勘気に困るだろうよ。やっかいなことだ」
 軽く言われた言葉にしては、ため息を漏らされなかっただろうか。ふとあこがれの方の気配が心配になって、そちらを見れば、立ち上がったユアンが霞む月を背後に立ち、こちらを見つめていることに気づいた。
 困惑したように見上げるクラトスの顔に白い花を一輪を持った手が近づく。
「お前にやろう。今日の記念だ」
 差し出された手を、あまりの驚きに身じろぎもせずに見つめる。ひやりとした夜風が吹き、火照っている彼の頬を撫でていった。
 我に返って花びらを無言で手にとると、軍師がくすりと笑ったように感じた。だが、何も言わず、貴人はくるりと後ろを振り向き、呼ばわる声のした方へと歩き出した。
 慌てて、膝をつき、拝頭する。心の中にはさきほどの軍師の声がこだまする。感じた熱い眼差しは何だったのだろう。あの手をこの手におさめることができたなら、どんなにか幸せなことだろう。とりとめもない思いが頭の中に浮かび上がり、彼は頭を振った。
 皇帝の身内である高位な方が自分ごときに興味を持っているわけがない。触れたいなど大それたことを思うなど、畏れ多い。同じ場所にいることでさえ、許されないはずだ。
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