唐桃

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驟雨(一)

 激しく降る雨音と鳴り響く雷鳴に軍師の声は呑み込まれた。クラトスは思いもかけない軍師の悲痛な拒絶に動けず、繰り返し光る稲妻の先に愛して止まない麗人の影が長く伸びるのを黙ってみていた。引き伸ばされたその影は、貴人がゆっくりと後ずさるにつれて、奥の部屋へと通じる扉の奥へと消えた。
 クラトスはこの数年間、夢でしか見ることのなかった大切な人の影が闇に吸い込まれる様に震えた。激しい外の物音とは裏腹に真っ暗な部屋の静けさに足を踏み入れることができなかった。稲光に垣間見える軍師の部屋は、長春宮の庭と同様に、家具や置物は何も変わっていないのに、打ち捨てられたような雰囲気が漂っていた。
 ふっつりと軍師の影が消え、風が壊れた扉を揺らがした。がたりというその音にクラトスはようやく気を取り直した。部屋の荒涼とした空気に息をのみ、軍師のさきほどの冷たい口調に時の流れを知らされた。だが、それでも愛しい方を追いかけようと一歩部屋に入ろうとした。その瞬間、背後にとてつもない殺気を感じた。


「やはり、クラトスはお前に会いに来たね。ユアン、お前はクラトスを止められない」
 怒りに染まった声に奥から軍師が慌てて居間へと戻る足音がした。
「ミトス」
「皇帝陛下」
 背後に、いつの間に皇帝が現れていた。クラトスは皇帝の只ならぬ様子に、軍師を守るかのように奥へと数歩入り込み、皇帝と向かい合った。まるで吹き上げる風に揺らがされるようにふわりと長い金髪を靡かせ、闇の中で野生の獣のように目を光らせ、皇帝は立っていた。うっすらと冷笑を浮かべた皇帝は勢い良く振り込んでくる雨にも濡れていなかった。
「クラトス、ユアンはお前の目なぞ見ないよ。いや、見えないの間違いか」
 叩き割られた扉がゆらゆらと動く前に、薄ぼんやりとした光に包まれて皇帝は立ちはだかった。手には皇帝しか扱えない剣が煌々と光を放っている。
「クラトス、誰の許しを得てここにいる」
 皇帝はさらに一歩クラトスに向かった。クラトスは見たこともない皇帝の姿に息を呑むだけだった。軍師がゆっくりと歩を進め、彼の後ろ近くに止まる気配を感じた。
「ミトス、クラトスは誤ってここまできたのだ。誰も止めなかったらしい。警護の兵はどうした。隙なく配置しているあやつらの目をごまかせる者はあなただけだ。クラトスが何の邪魔もなくここに来られるなど、誰かさんの差し金でもないかぎりできない相談だ」
「ユアン、何が言いたい」
「わかりきったことを聞くな。ミトス、あなたの許しなく、ここに近づくことなど、以前の私でさえ無理だろう。今だって、あなたが結界を張っていることが分かる。それどころか、部屋の外に何人も知らぬ者の殺気を感じる。それなのに、クラトスは、誰何されることなくここに近づけた。クラトスはすぐに戻るのだから、もう、この話はおしまいとしよう」
 しかし、皇帝は入り口に立ったまま、動こうとしなかった。
「お前の部屋にクラトスがいることを私が認めると思うのか」
「ミトス、何が気にいらない。私はクラトスを見ていないよ。そして、クラトスはもう帰る」
 軍師はもう一歩踏み出し、優しくクラトスへと声をかけた。
「クラトス、すぐに私の部屋から立ち去るのだ。聞いただろう。来てはならないことを教える者がいなかったようだが、ここには陛下の許しなく近づいてはならない」
「でも、ユアン様……」
 クラトスはとまどったように軍師の名前を呼んだ。とたんに、光の剣が振り上げられ、青白い光が皇帝の真っ白な面を過ぎった。振り上げられた剣の空を切る音に軍師が慌てて皇帝へ呼びかけた。
「ミトス、落ち着いてくれ。私の言うことを聞いてくれ」
 皇帝はゆっくりと剣を下ろした。皇帝と軍師の気がぶつかりあったかのように、雷の音が再び鳴り響いた。
「ミトス、クラトスは何も知らなかったのだ。二度とここには来ない。さあ、クラトス、もう戻れ」
「それがどうした。クラトスは、こいつは、泥棒猫のように忍んできたぞ。お前の部屋の扉を、私の張った結界を勝手に壊した」
「ミトス、扉はいくらでも直せる。次はあなたがより強い結界を張ればよい。それに私が約束を違わないことは、いや、違えないことは、あなたが一番知っているはずだ」
「ユアン様、どういうことなのです」
「私に寄るな。クラトス、戻ってくれ」
 混乱したクラトスは、制止する声も聞かずに、ユアンに近寄ろうとした。
「クラトス、大人しく帰ればいいものを。それ以上一歩でもユアンに近づいてみろ。たたき切ってやる」
 激怒した皇帝が再び剣を振り上げた。皇帝の気配に軍師が慌てて、クラトスと皇帝の間に入ろうとしてよろめいた。
「ミトス、馬鹿なことを言うのはやめろ。クラトス、頼む。私の言うことを聞いてくれ」
 ユアンの手がミトスを止めようと差し出され、その手はむなしく空を切った。勢い余ってよろけるユアンの姿にクラトスはようやく愛しい方の異変に気づいた。
「ユアン様、……。まさか、お目が……」
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