唐桃

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潜入

 夏が本格的に始まったことをいやでも教えられるような蒸し暑い日だった。クラトスは六光宮の広い講堂を抜けると脇の庭へと入った。この辺りは、宴会も会議もなければ、ほとんど人が訪れることもない。彼が足を踏み入れると、どこに止まっていたのか、ふわりと揚羽蝶が舞い上がり、暮れる日の中へと溶け込んだ。今まで無人だったことを教えてくれる蝶にクラトスは一時目をやり、すぐに素早く庭の先にある回廊下の通路を潜り抜けた。
 先は後宮への近道となる小さな回廊が続いている場所が簡単に見渡せる。動かずともじわりと汗がしたたり落ち、首筋を伝わる感触がうっとうしかった。暑さとは裏腹にうっすらと雲のかかった空が雨の近いことを教える。都合がいい。雨が降り出せば、彼の動きを見咎める者はさらに減るだろう。
 じっと、クラトスは腕を組み、寄りかかった壁から、後宮へと続く回廊の入り口を覗いた。どうやら、誰もいないようだ。六光宮脇に出る小さな通用門はここしばらく誰も利用しないということで、閉められている。そのため、見回りも日に数回しかないことは確かめていた。
 念のために、さらに半時ほど待つ。王都に戻って数ヶ月、リーガルやゼロスに話を聞いた後は、表立って軍師のことを尋ねることは控えた。そして、この機会をじっと覗っていた。誰にも相談はしていない。愛しい方の元気な姿さえ拝見できれば、それで良かった。禁を犯して咎めを受けるのは覚悟の上だ。


 宰相と話した後、フォシテス将軍を尋ねた。リーガルからこちらにも指示が廻っていたのだろう。フォシテスはクラトスの問いに丁寧に答えてくれた。しかし、ゼロスから聞いた以上の新しい話はなかった。
 後宮に入りたいと頼むと、フォシテスは首を振った。
「クラトス、後宮には陛下のお許しがないと誰も入れない。それどころか、後宮の警備をしている私の部下も定められた所から奥には入れることを禁じられている」
「フォシテス様、一回だけでいいのです。ユアン様がお元気でいらっしゃることさえ、分かるだけでいいのです」
 フォシテスは自分の下へ配属となったときから、気に入っている青年をつくづくと眺めた。初めて軍師のことを尋ねたときから、クラトスの心は決まっており、それを止める術は軍師以外に持たない。おそらく、彼が助力を拒めば、クラトスは一人でつき進むだろう。せめて、彼の力で及ぶ限りは騒ぎが大きくならないようにした方がよいだろう。
「クラトス、私は止めたからな。後宮にお前が入り込んで騒ぎとなれば、ゼロス様やリーガル様でも事を収めることは難しい。だから、私は何も知らない。私は何も聞いていなかった。お前も私には何も尋ねていない。いいな。私は急用を思い出したから、これからしばらく外に出る。この部屋で私を待っていてくれ」
 フォシテスは後宮の警備表を机の上に広げると、いきなり外へと出て行った。クラトスはその後姿に深く頭を下げ、素早くその表を眺めた。
 
 
 薄暮に紛れて、通用門をこじあける。鍵は思ったよりも簡単に開いた。後は回廊の曲がり角の影に身を潜め、クラトスは心逸るままに長春宮へと急いだ。途中にある小さな門はいずれも施錠はされていなかった。これだけ急いていなかったら、あまりに静かな後宮の雰囲気を彼もいぶかしく思っただろう。しかし、今は大切な方の元へ向うことしか頭になかった。
 永楽宮へ通じる曲がり角にはさすがに兵が詰めていた。警備の兵が交代している隙に入り込んだ長春宮への回廊は、全く人影がなかった。以前なら、侍女や侍従の影が見えた通路も無人で、暗くなり始めたばかりとは言え、灯篭に火が灯されていない。軍師の具合が悪くなったことで、後宮の雰囲気までもが荒れてしまったように感じられた。
 夕方にも関わらずむっとするような空気は、雨の予感をさらに増した。クラトスは長春宮の正面に警備兵がいないことに気づいた。以前なら、常時二名ほどの兵がついていたはずだが、どこにいったのだろう。
 しかし、これは好都合だ。ここまで入れば、堂々と正門の兵には断りを入れるつもりだったが、彼を止める者はいなかった。
 脇にある通用門も押せば簡単に開いた。息をするのも苦しいほど蒸した空気がクラトスの体にまとわりつき、じわりと汗が吹き出た。何かがおかしい。
 大切なかの人がいるはずの長春宮は明りもつかず、静まりかえっていた。薄暮に影を落とす瀟洒な宮はまったく人影が見えなかった。以前なら、まだ仕事をする軍師のために、侍従も侍女も数多く行きかっていたものだ。仕えている者達はどこにいったのだろう。
 お具合が悪いから、もう、休まれてしまったのだろうか。それならそれで、この息が詰まるような沈黙は一体何を意味するのだろう。ひょっとして、皆が静まるほど、かの方はお具合が悪いのかもしれない。動く者は彼しかいないのに、誰かにじっと見張られているような感触にクラトスは後ろを振り返った。だが、そこには何の影もなかった。
 私室の居間に通じている扉の前で息をついだ。いつもなら、扉の隙間から明りが漏れていたが、人がいないかのように暗いままだった。扉の前の灯篭も点いておらず、クラトスは不安に身を震わせた。
 どうしても違和感が拭えなかった。まるで、何週間も打ち捨てられていたような気がするのはどうしてなのだろう。中庭の木々は枝が伸び放題になり、軍師がお気に入りだった夜来香の棚も半分つるが空へと飛び出し、以前のように手入れされていなかった。庭師もここまで入れないのだろうか。かの方がお元気なら、このように放っておくわけがない。
 しばらく、扉の前で逡巡し、中を覗った。だが、薄暗い部屋は何の物音もしなかった。まるで人の気配を感じない。どこかに移られたのだろうか。軽く扉をたたいたても、中からは、本来側に控えているであろう侍従の返答もなかった。
 クラトスは闇が迫るなか、何も答えが返ってこないことの意味を思い、扉の前に立ちつくした。
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