唐桃

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花冷え(三)

 言葉もなく、手に箱をのせたまま動かないクラトスにリーガルとアリシアも互いに目を交わした。しんと静まった部屋に、明るい春の日差しと鳴き交わす小鳥の囀りだけが響く。深く息を吐いたクラトスはまるで手放すと崩れてしまうかのように恐々と、小箱を卓の上に置いた。
「つい、驚きまして、すみません。確かに受け取りました」
 ややあって、クラトスは胸の宝玉を左手で押さえてから、アリシアへと頭を下げた。
「いいえ、私こそ、大切なものをお預かりしたまま、クラトス様へすぐにお知らせもできず、失礼いたしました。実は、私が小箱と鍵をお預かりしてすぐ後、お父様が倒れたと陛下からリーガル様に内密の話があったのだそうです。お父様はそれまでお元気だったのです。陛下にお父様から申し上げたことで何か……」
「アリシア、そのような私的な事を理由に陛下が何をさると言うのだ」
「すみません。でも、リーガル様、クラトス様、私、心配でならないのです。最後にこの鍵をお預かりしたとき、お父様のお心は決まっていらっしゃいました。だから、クラトス様にまで何のご連絡もされないのは、とてもお具合が悪いか、そうでなければ……」
 アリシアはそれ以上は何も言わず、震える手を握り締めて俯いた。リーガルはその手を取り、肩を抱き寄せた。
「アリシア、落ち着いて。まだ、悪い方に考えるときではない。戻ってきたばかりのクラトスを驚かせてはいけないよ」
「リーガル様、ユアン様からはどなたにも何一つご伝言がないのでしょうか」
「それが判断の難しいところでな。最近はたまに代筆で指示が出たりするのだ。その内容を見ると、確かにユアン様からのご指示に見える。だが、お声を聞いたり、お姿を拝見したことはない」
「私が直接後宮へとお送りしましたお手紙は今の長春宮に詰めている方が受け取ってくださっているようです。でも、差し上げましたお手紙にあの秋から後は一度もいただいておりません」
「ああ、やはり……。私も西域にて昨夏に短い御文をいただいてから、何も……」
 クラトスはゆっくりと席を立つと、正面の扉から回廊へと再び出た。春の庭は、今聞いたことなど夢であるかのように、のどかに見えた。遠く雲雀のさえずりが響き、ハクセキレイが目の前の置石の上を渡っていく。
 この二年間がすべて夢であったらよかった。お側を離れるようなことがなければ、王都にいさえすれば、ユアン様のお近くで見守っていることができたかもしれない。病で苦しんでいらっしゃるのなら、せめて、手をとってお慰めできたはずなのに。もし、陛下が何かご叱責されるのなら、あの方ではなく、彼こそがそれを受けるべきだったのに。彼がここで立ち尽くしているときも、あの方はお一人で苦しんでいらっしゃるかもしれない。
 クラトスは回廊の細い欄干に腰を寄せ、木々の間からうっすらと見える王宮を眺めた。不安と焦燥にかられて見る王宮は、初めて登城したときの輝きはなく、ひたすら巨大で虚ろな迷宮のようであった。いや、初めて訪れたそのときだって、彼は人の心を幻惑するあの宮殿を彷徨っていた。そんな彼に奇跡のように手を差し伸べてくださるのは、いつだってあの方だった。
 
 
 いつまでも立ち尽くしているクラトスを心配したのだろう。横にリーガルが近づき、話しかけたきた。クラトスは固く握り締めていた手をゆるめ、長く息を吐いた。リーガルはその思いつめた表情に首を振った。
「クラトス、いきなりの話でさぞかし驚いていることだろう。今はまだ何事も明らかになっていない。だから、あまり考えすぎるな。アリシアも連絡をいただけないので、悪い方へと考えてしまっているようだ。お前も悲観的にものごとを捉えず、少し落ち着いてくれ。これからしばらくは、私も王都に留まる予定だ。今日はこちらが一方的に話をしたから、お前も混乱しているだろう。どうだろうか、一度日を改めて、また事態について相談しようではないか」
「申し訳ありませんでした。いささか、動揺いたしましたようで、お恥ずかしいところを見せました。リーガル様のおっしゃるとおり、ユアン様の今までのご事情を伺ったばかりでは、私は何をしてよいのか、検討もつきません」
「それは、我々も同様だ。この半年、何が起きているのか、理解しようとしている間にときだけが過ぎた」
 部屋の中から二人を座って見守っていたアリシアが近づいてきた。
「クラトス様、リーガル様、この館は週に数回、うちの屋敷の者に見回らせているだけで、人が常にはおりません。日が高いうちに、館の中をご覧になってはいかがでしょうか」
「そうだな。せっかく、ここに来たのだから、そうするのがいいだろうな」
「しかし、こんなにお時間を頂いて、まだお付き合いいただいても……」
「遠慮するな。だが、お前一人で見た方がよいかもしれないな」
「リーガル様、私もそう思います。きっと、クラトス様もいろいろと感じられることもございますでしょう。どうでしょうか。私どもは先に戻りますから、クラトス様、よろしければこの鍵もどうぞお受け取りください」
 アリシアがさきほどクラトスから戻された鍵をクラトスの方へと差し出した。クラトスはついと手を伸ばしかけて、止めた。
「しかし、この館はリーガル様のご親戚の持ち物とさきほどお伺いいたしましたが」
「いや、お前が保管しておいてくれ。すぐに住めるようにとユアン様が家具や他の調度もご用意されていたそうだ。お前に預かってくれる方がユアン様も喜ばれるだろう」
「リーガル様のおっしゃるとおりに、さあ、どうぞ」
 クラトスはアリシアから精巧な造りの鍵を受け取り、つくづくと眺めた。まだ、真新しくみえるその鍵は軍師がこの家の改装に合わせてわざわざ作ったのだろう。確かに後宮を出られようとしいたのだと、ひやりと物言わぬ鍵が教えてくれた。
 

 一人残ったクラトスは、館の部屋を順繰りに歩いた。春の日差しだけではない暖かさが家中に満ちていた。
 庭を正面に見る部屋の左手にある透かし彫りを重ねた扉の向こうに寝室があった。その扉は長春宮にある重厚な彫刻ではなく、あの西の古都の透かし窓を映したかのように薄い板が繊細な幾何学模様に繰りぬかれていた。寝室の窓も意匠を少しだけ変えた透かし彫りの窓枠が嵌められていた。今は何十年も以前のように感じられる軍師と過ごした晩が思い出された。
 中庭を挟んで裏手の部屋は、おそらく、仕事をされるつもりだったのだろう。いかにも、かの麗人が肘をついて考え事をしていそうな、何の飾りもない漆塗りの卓がこれまた簡素な形の椅子と合わせて置かれていた。脇の小机は細長く、軍師が巻物を広げてみるつもりだったことを伺わせた。
 その横の部屋は以前、彼の執務室に置いていたと同じ色調の紫檀の真四角な卓が置かれ、部屋の隅に三段の棚が用意され、その上には見覚えのある白磁の優美な壷が置いてあった。軍師の部屋で夏の夕べに肩を並べていたとき、ほんの戯れに聞かれたことを思い出した。この部屋で何が一番気に入っているかと尋ねられ、麗人の肌にも似た真珠の輝きと品のよい姿の陶器を指した。理由を問われてしどろもどろに答えると、それは優雅な笑みを浮かべて、彼の唇に口付けを与えてくださった。
 クラトスはどの部屋にも満ちている大切な方の雰囲気に酔い、会えない切なさに胸が震えた。これ以上、歩けそうもない。渡された鍵を握り締め、最初に案内された正面の部屋へと戻った。
 春の日は長く部屋へと入り、風に舞うかすかな埃の中を光の筋となって、卓の上に差し込んでいた。それは、さきほどの貴石の納められている箱へと伸び、彼がかの方の首へとかけた石を照らしていた。赤い石は彼の心からしたたる血のように色濃く煌き、何かを語ろうとしているかのようだった。
「ユアン様、何が起きたのです。どうか、ご無事であることを一言だけ、私にお伝えください。ほんの一目でよいですから、私に会ってください」
 堪らず、その石を手にとり、口付けを送る。しかし、その感触は彼の不安をさらに煽るかのように、ひどく冷たかった。軍師のほっそりとした首にかけたときの、まるで生きているかのような熱い感触はどこにも残っていなかった。
 手の中の石を白絹の上に置く。この二年半、一度もはずしたことのなかった胸の上の石をその横へと並べた。夏の青空よりも濃く、西域の山の湖よりも深い紺碧の宝玉は、まるで吸い寄せられるように血の宝玉と並び、二つの石はかすかな輝きを放った。
 クラトスは対の宝玉が放つ光の中に大切な麗人が微笑んで立っている姿を見た。息をのんで、手を差し伸べようとすると、かの人は軽く横に首を振り、次の瞬間、それは光の筋に散り散りに舞っている埃となった。
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