唐桃

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花冷え(二)

 あらかじめそのつもりだったのだろう。リーガルとアリシアに伴われ、用意されていた輿で向かった先は王都の中心部から南にはずれた閑静な場所だった。王宮からは小一時間ほど離れているだろうか。王宮を見晴らせるやや小高いところにその館はあった。
 低い土塀に黒い瓦をのせた慎ましやかな門。その奥に真っ直ぐと連なる小道とその先に見え隠れしている館。クラトスは一目見るなり、軍師が気に入ったことがわかった。
 このあたりには珍しい木々や、今からが盛りと思える異国の花々が植えられた庭を抜ける道は、鮮やかに色彩に溢れ、それでも何か懐かしく穏やかな気分になった。こじんまりと立つ館の雰囲気も、軍師の私室を思い出させるものがあった。整然としていながら、冷たい感じではない。小さな窓の飾りや正面の扉へと続く階段に施された文様は、とても緻密で繊細に作られ、その癖、何の飾りもない壁に馴染んでいた。
 アリシアが先にたって、短い階段をあがり、精巧な鍵をクラトスへと差し出した。
「どうぞ。お父様に最後にお目にかかった日に預かりました」
「どういうことですか」
 クラトスはまだ二人が語っていないことに思い当たり、鍵に躊躇いがちに手を伸ばし、小声で問いかけた。
「ここではなんだ。中で話そう。お前が開けてくれ」
 リーガルが周りをちらりと気にするように窺い、クラトスをせかした。クラトスは複雑な歯が突き出した鍵を受け取ると、正面の扉の錠に差し込んだ。かちりと軽く鍵は回り、簡単に扉は開いた。
 館の中は、明るい白い壁に朱塗りの柱がまぶしく、長らく人が入っていなかったのだろう。わずかに埃くさかった。アリシアに促されて、三人はまっすぐ正面の部屋へと入った。慣れた様子でアリシアが窓をあければ、春の日差しが部屋へと射し込み、唐草模様で回りを縁取られた紫檀の卓とやはり優しげな花が浮き彫りにされた椅子を照らした。
「この館は、ひょっとしてユアン様が選ばれたのでしょうか」
 振り向いて尋ねるクラトスに、リーガルが頷いた。
「そこに座ろう。アリシアがお前に話してくれよう」
 三人はうっすらと埃をかぶった卓の周りに腰をおろした。窓から見える庭は、新緑に萌える木々とそれを飾る花で見事な眺めだった。
「クラトス様が思っていらっしゃるとおりです。お父様は後宮を出られるご準備をされていらっしゃいました。手ごろな館を探して欲しいと頼まれまして、こちらをご紹介いたしました」
「出立の前夜にそのようなことをおっしゃってくださいました。でも、まさか、私との約束を守ってくださったなんて……」
 クラトスは絶句し、そのまま立ち上がると庭へとつながる部屋の扉を開け放った。午後の春の陽気に緑が輝き、花の香が新鮮な空気と共に部屋にはいってきた。クラトスは扉から庭へと続く回廊までふらりと出ると、何かに心を奪われたように正面の庭を見下ろした。
 アリシアもリーガルも声もかけず、クラトスがこちらに戻るまで静かに待っていた。
「……すみません。つい、ユアン様ならこのお部屋からあの庭の景色を喜ばれるのではないかと」
「クラトス様もお気に召されたでしょう。お父様もこのお部屋に長い間座られて、必ずクラトス様も気にいると、よくおっしゃってました」
「ユアン様がそのようなことをおっしゃって下さったのですか」
「ええ、この館にいらっしゃったときは、必ず、クラトス様のお話ばかりでした。お父様はクラトス様がご帰還されたら、一緒に過ごされるおつもりでしたから、どのような誂えにすれば、クラトス様が喜ばれるかと本当に楽しそうにご準備されていたのです」
「それが、お前が昨年に春にひどい負傷をしたと聞いた頃だろうか。急に、この館は不用になったからとおっしゃられて、私達で預かっておくように言い付かった」
「本当にとうとつなお話で、あんなに楽しみにされていたのにと私は吃驚いたしました。そのまま、陛下とご一緒に夏の離宮に移られてご連絡もいただけませんでした」
「リーガル様、アリシア殿、お聞きください。
 あの春、私の隙をつかれて、蛮族に襲われた後、それは不思議なことが起きました。差し上げた報告書には書けませんでしたが、奇襲で受けた傷はそれは深く、私もこれで都に戻ることは適わないと覚悟いたしました。預からせていただいた軍も完全に敗走しておりました。
 もうこれで命はないと覚悟しておりましたら、ユアン様のお声が聞こえました。確かに私に呼びかけてくださいました。その声を頼りに目を覚ますと、蛮族が逆にわが軍に追われておりました」
「そうか。ユアン様が何かお力を使われたのだろうか」
「わかりません。でも、あんなに遠い所だったのに、ユアン様のお手を感じました」
「クラトス様、きっとお父様のお力ですわ」
「そうか。術を使われるとはそういうことだったのか。我々には分からない。だが、陛下は気づかれていた。春も終りの頃、お前が一命を取り留めた上に、再び進撃しているとの知らせに、ユアン様のおかげだなとおっしゃっていた。あのときは分からなかったが、そういうことだったのだな」
 リーガルは一人言のようにつぶやくと、複雑な表情を浮かべた。
「リーガル様、ユアン様と陛下の間に何か諍いでもあったのでしょうか」
 その様子にクラトスが不安そうに尋ねた。
「諍いというか……」
「クラトス様もきとお気づきでしょう。皇帝陛下もそれはお父様のことを気に入っていらっしゃいます」
「アリシア」
「リーガル様、クラトス様に申し上げた方が……」
「どうぞ、お聞かせください。アリシア殿がおっしゃろうとしていることは、分かっているつもりです」
「そうだな。途中で止めて悪かった。アリシア、続けてくれ」
「お父様は後宮を出られるために、陛下と話し合いをされるおつもりでした。春にはご覧のように館の修理も終わりまして、調度もほとんど準備が整いました。後は、皇帝陛下にお許しをいただいて、こちらにお一人で移られたいとそのようにおっしゃっていたのです。ところが、突然、不用とのお申し出、すっかり戸惑っておりました」
「うむ。実を言えばな。陛下はお前が再度進撃しているとの報告を受けたあの春は、ひどくご機嫌が悪かった。ユアン様が横で腫れ物に触るように、相手をしていらっしゃった。だから、陛下が夏の離宮に行かれると伺ったときは、皆、ほっとしたものだ」
「お父様はもちろん付き添いとしてご一緒するのが慣例ですから、あの夏はずっと離宮の方で過ごされました。いつもでしたら、数週間ほどで戻られるのですが、昨夏は一月以上は滞在されてました。陛下が戻られてすぐ、ゼロス様が宰相になられました。そのお祝いなどでミトス陛下も大層ご機嫌が良くなられたとか」
「ああ、そうだ。夏過ぎには、陛下もすっかり普通のご様子で、東の半島から海を渡った先の国との交易などについて、ご熱心に指示を出されていた」
「そんな折に、お父様から久しぶりにご連絡をいただきました。やはり、館の準備は進めたいということで、こちらにも再びご訪問いただきました。私が最後にお父様とゆっくり話をいたしましたのは、このお部屋でした。そのとき、お父様はこうおっしゃられたのです。一度はあきらめたが、やはり、クラトス様とご一緒に過ごされたい。だから、陛下ともう一度だけ、話し合うつもりだ」
「あきらめた。でも、私を望んでくださった」
「春に何があったのかは教えてくださいませんでした。でも、これを一時預かって欲しいと、さきほどの鍵と一緒に私に託されました。きっと、予感されていたことがあったのです」
 アリシアが小さな箱を差し出した。クラトスは見覚えのあるその小箱を震える手で受け取った。今の季節には合わない落葉が描かれた箱は思い出の中のそれより軽く、あの出立の日の朝よりも脆そうな気がした。そっと上蓋をとると、白絹の上に赤い宝玉が置いてあった。赤い貴石は春の日に鈍く光り、濁っているかのようだった。
 クラトスは突然納得した。胸の上のあの石が答えてくれなかったのは、その力を失ったからなのだ。
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