唐桃

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花冷え(一)

 春も盛りの王宮は女官達が纏う裳裾も明るい色となり、華やかな雰囲気に溢れている。クラトスが回廊を進めば、前にいる女官達は皆深く膝を折り、文官達もその場に立ち止まって礼をとる。帝国が願ってやまなかった西域をついにその領土とした将軍は、いまだ慣れないその扱いに戸惑いを見せ、俯き加減に速足で通り過ぎた。背後から、女官達が騒ぐ嬌声が聞こえれば、ますます足は速まった。
 誰もいないことを確かめて、太和殿脇の庭へとクラトスは飛び込んだ。小さく人気のない庭は、以前と変わらず唐桃が花をつけていた。高い壁に囲まれたひっそりとした場所こそ、彼が求めているところだった。真っ直ぐにかの麗人が座っていた置石の横まで進み、何も語らない石を長い間見つめた。やがて、深いため息を漏らし、クラトスは以前と同じくそこからやや離れた位置に腰を下ろした。 
 久しぶりの王宮は相変わらず膨大な書面を要求する。クラトスが慣れない書類作業と格闘しながら館と王宮の往復をしている間に、たちどころに数週間が過ぎ去った。お忙しければ、何もお言伝をいただけないことはあったと自分に言い聞かせてはいた。しかし、軍師の気配がまったく感じられないことに次第に不安が募った。
 この二年半でかなりの人が入れ替わっていることも分かってきた。年老いた将軍達は半数以上が引退し、文官達もすっかり様変わりしていた。筆頭書記官だったゼロスはすでに宰相となっていた。変わらないのは、王宮警備隊の長を務めるフォシテス将軍ぐらいで、クラトスが親しくしていた武官達は皆、昇進の結果、王宮の外に配属されているようだった。
 王宮に何が起きているのだろう。
 はらはらと散る白い花を見ていると、いても立ってもいられない気持ちになった。戻ってきてからこの方、姿を拝見することはおろか、伝言の一つももらえずにいる。こっそりと軍師のことを尋ねようとしても、まるで闇の中を手探りしているかのように手応えがなく、誰も彼もが彼を避けているようだった。
 皇帝陛下からの報告が終わった後、宰相となったゼロスに何度か面会を申し込んでいたが、しばらく待ってほしいとの返答しか貰えていなかった。すれ違い様の回廊での短い世間話で、クラトスがわずかに口を開きかけた瞬間に、ゼロスが軽く目を閉じてその問いを封じた。問うなと教えるゼロスの表情に胸が波立った。
 フォシテス将軍に帰還の挨拶に伺えば、ほんの数分の四方山話の後に、緊急の用でフォシテスは呼び出された。すまないと謝るかつての上司の隻眼に浮かんでいた表情は、困惑だろうか。それとも、何かに怯えていたのだろうか。
 頼りにしていたアリシアはクラトスの出征直後にリーガル大将軍へと嫁いでしまったため、彼から訪ねることも憚られた。リーガル大将軍は西方に出たまま、まだ戻って来ない。軍師の側近くに使えていたはずの者はみな入れ替わっており、事情を聞こうにも今の侍従達の名前をすることもできず、連絡を取ることも適わなかった。
 胸の宝玉さえも何も応えてくれない。確かに触れた指先に感じられた温かさは、春だというのに、掻き消えたままだった。地に落ちてくる白い花を見ていると、差し出された優美な手が思い出された。あれから、何とときが経ってしまったことだ。クラトスは冷たいままの玉に口付けし、ぼんやりと地を眺めた。


 春も終わろうとする頃、クラトスと入れ違いに西方に出ていた大将軍が王都に帰還した。意を決してクラトスがリーガル大将軍を訪ねようとした矢先、凱旋祝いと称して、リーガルの館に私的に招かれた。
 リーガルの館は初代皇帝以来続く名家とあって、王宮にほど近い場所に大きな構えで建っている。通された広々とした客間も、まるで皇帝が臨席するための千壇宮の主室のように、伝統と格式を保ったものだった。いまだ、己の地位になれないクラトスは落ち着かない気分で豪奢な柱や見事な塗りの椅子や卓を見回してた。
「クラトス様、この度はおめでとうございます」
 極内輪と言われていたが、確かにリーガル大将軍とその令夫人しか席にはいなかった。アリシアが丁寧に礼を取れば、クラトスはひどく戸惑った様子で立ち上がり、同じように礼を返そうとした。
「クラトス、お前は座っていればよいのだ」
 リーガルは相も変わらないクラトスの姿に笑みを浮かべた。
「クラトス、凱旋祝いというには、内々ですまない。だが、アリシアがお前に伝えたいことがあるというのでな。戻ってきて、一月、まだ何かと慣れないことも多いだろう。今日は我々だけだから、くつろいでくれ」
「こちらこそ、お招きありがとうございます。二年半ほど離れておりましたので、王宮もすっかりと顔ぶれが変わってしまったようでございます。何かと勝手が違い、とまどっております」
「そうか。実は我々も少しとまどっていることがある。その話はおいおいするから、まずは食事でもするために移動しよう」
 食事のためにと案内された小部屋は、さきほどの応接に使われている表の部屋とは違い、居心地のよい場所になっていた。
「すまないな。お前の手柄を考えれば、賓客扱いしなくてはならないのだが、今日は三人だけだ。こちらでゆっくりと話したい」
「いえ、お気遣いなく。遅くなりましたが、お子様のご無事の成長、お祝い申し上げます。私こそ、跡継ぎのご誕生と伺いながら、遠い地におりましたために、何もしないままに本日に至り失礼いたしました」
「クラトス様、お言葉ありがとうございます。でも、とてもかわいらしい木彫りの駱駝をいただきましたこと、ちゃんと覚えておりますわ」
「あれは、こちらに相応しいものでは……」
「クラトス、気を使うな。それにあの駱駝が息子の何よりもお気に入りだ。お前は見る目がある。それよりも、戻ってきて、お前も何かと気になることもあろう。遠慮せずに尋ねてくれ」
「ありがとうございます。いろいろと王都を離れておりました間のこと、是非ともお伺いいたしたいと存じます」
 リーガルとアリシアは互いに目線を合わせた。やはり、何かが起きているのだ。クラトスは運ばれてくる食事を前にまたしても不安を沸き起こるのを感じた。食事はいたって静かに進んだ。クラトスが痺れを切らせて、思い切って尋ねようと顔をあげたとたん、アリシアから声をかけられた。
「クラトス様、まずはお聞きになりたいことはございませんか」
「アリシア殿、お伺いしてもよろしいのでしょうか。王宮ではどなたも口に出されません。ゼロス様からも問いを発すること自体、止められました」
「そうか。ゼロスが止めたか」
 リーガル大将軍はそこで一度、口を閉じた。
「だが、お前には知る権利があるだろう。皇帝陛下から、ゼロスと私に内密の話として呼び出しがかかったのは、新年を迎えるにはまだ一月くらい前のことだった」
 アリシアが続けた。
「その直前まで、お父様はお元気で私にいろいろとご連絡を下さっていたのです。秋には私達の子供を見に数回ほど、こちらにもいらっしゃいました」
「だが、最後のご訪問から一週間ほどしてだろうか。姿がお見えにならないと思っていたら、陛下からユアン様が急に大変重い病で倒れられたと告げられた。帝国の内情に関わることであるからごく内密にしろとの指示だった」
「それで、ユアン様のお加減は……」
 やはりそうだったのだ。大切な方が病に倒れていることも知らずに、彼は西域の国を平らげ、その結果にいい気になっていた。文が来なくてもこちらからその成果をお知らせすべきだったのに、忙しさにかまけて何も送らなかった。
 顔色を変えるクラトスにリーガルが答えた。
「そんなに心配するな。お命に関わるほどではないと陛下から聞いた」
「でも、部屋からお出になれないくらい悪いと伺いました。ですから、私、本当に心配で何度も後宮へのお見舞いを願い出ておりますが、一度もお許しをいただいておりません」
 アリシアが不安そうにリーガルに向いて訴えた。リーガルは窘めるようにアリシアの方に向いて首を振り、クラトスの肩をたたいた。
「私やゼロスも、それこそ何回か陛下にユアン様へのお目通りをと申し上げているのだが、まだ、そのときでないとおっしゃられるばかりだ。すでに半年近くは過ぎた。正直に言えば、クラトス、お前が戻ってくれば、ユアン様もお姿を現すのではないかとそう思っていた」
 クラトスが困ったような表情を浮かべて、顔を赤らめた。
「リーガル様……、私が戻っても……」
「病は気からと言うではないか。お前が西域へ出征してからは、ユアン様は心なしか力を落とされていたし、そこに重い病を患われてはな。お前がこちらに戻ってくれば、それだけで回復されるのではないかと少々期待していたのだ。だが、お前が戻っても姿をお見せにならないとゼロスから聞いて、私も驚いている。ユアン様から本当に何もお言伝てがないのだな。いや、聞かなくても、お前の顔を見ればわかる」
「前からお具合が悪かったのでしょうか。いただいた文には何も書かれていらっしゃいませんでした。私には知らせないおつもりだったのでしょうか」
 クラトスは不安そうに繰返した。
「いいえ、クラトス様。お姿が拝見できなくなるまでは、お元気でいらっしゃいましたのは確かです。私とお父様で長い時間、クラトス様のことを話しておりました。お父様はそれはクラトス様のご帰還を楽しみにされていらっしゃいました。今日、こちらにお出で願ったのも、お父様がご準備されていたことでお話させていただきたかったのです」
「ユアン様がご準備……」
「何もお聞きになっていらっしゃいませんか」
「ユアン様はきっとご自分の口からクラトスに話すつもりだったはずだ。アリシア、クラトスをあの場所へ案内して、話した方がいいだろう。クラトス、悪いが、少し外につきあってくれ。気分転換に外の空気を吸ったほうがいいだろう」
 まだ動揺しているクラトスにリーガルが席を立つように促した。
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