唐桃

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帰還

 クラトスは豪奢な執務室を見渡した。六光宮の角近くに与えられた部屋はリーガル大将軍の執務室と同じ並びで、彼が挙げた手柄を高く評価されてのことだった。
 調度もほんの二月前までいた西の最果てのあり合わせとは、比べものにならない豪華なものだった。紫檀の執務机は、何日かかったのだろうか、見事な匠の技で唐草文様に囲まれた踊る天女達や楽人の姿がぐるりと彫られている。横に置かれた小机は上に物を置くなど躊躇われるような象嵌の花が咲き、優美に曲線を描く足先にまで白い蝶が飛んでいた。
 この二年ですっかり忘れていた王宮の優美で洗練された雰囲気にクラトスは身の置き所がないように、もぞもぞと椅子に座りなおした。目の前に出された白磁の茶器のこれまた繊細な曲面にそっと指を這わす。まだお目見えできない麗人の白く優雅な首筋が思い起こされた。どこか荒々しく素朴な西域の町のざわめきは遠くなり、兵達の呼び交わす声も馬の嘶きも聞こえない。遠征中には絶えずパチパチと燃えていた煙い炉も側になく、ちりんと茶器の蓋を取る音さえもが部屋に響く。
 六光宮は後宮に近く、出征する前は彼でさえ、この近くを訪れるのは大将軍に呼び出されるか、あるいは、皇帝陛下の臨席を賜る極秘の会議に限られていた。無事に王都への帰還を果たしたにも係らず、クラトスは己の身にはそぐわない華美な調度に緊張が解けなかった。戻ってきたばかりの身ともなれば、さしてすることもなく、午後の時間を慣れない絹張りの敷物で覆われた椅子の上で過ごしている。
 クラトスはこの半年の西域討伐軍の成果をまとめよとの指示に、隣室に控える副官達の助けを得ながら、久しぶりに重たい剣を筆に持ち替えていた。わずかな時間も惜しんでありあわせの筆で反古紙に書きなぐっていたときと異なり、記す前に考える時はいくらでもある。それなのに、さほど書き物は進まず、手の中で繊細な塗りの筆が玩ばれるだけだった。
 この部屋は後宮から本殿である太和殿や公式の会議が開かれる千壇宮への通路の側だ。今にもあの方がふわりと髪を靡かせ、彼を魅了する香を纏って現れるのではないかと、それがしきりと気になった。いっそ、手前の副官達の部屋で共に筆をとり、回廊側の窓を見ていたい。
 気づくと、空いている左手は胸の宝玉の上に軽くあてていた。この二年間ですっかり癖となってしまったことに苦笑した。


 昨春遅く、奇跡の形勢逆転をなした帝国軍はその勢いのまま、砂漠を越えて西の蛮族の国へと攻め入った。一度は倒れたクラトスも帝国軍の勢いに癒されるかのようにあっという間に回復した。
 夏前には砂漠を乗り越え、蛮族の本城を前に帝国軍は相手と対峙することとなった。すでに春の戦いで主戦力である騎馬の弓兵をほとんど失った相手は、抵抗らしい抵抗をすることなく、わずか二週間の睨み合いの末、あっさりと城を明け渡した。クラトスは本城で休む間もなく、北の高原に位置するその国第二位の都市まで進撃し、夏には西域全域を手中に収めた。
 瓦解した国はもともとが複数の部族で成り立っていたせいか、帝国からそれぞれの部族長ごとへ和平の使者をたて、それなりの待遇を約束すれば、さして反抗されることもなかった。
 交易で生きてきた民達はあっさりしたものだ。為政者が帝国であろうが、他の部族の者であろうが、この過酷な環境で生き延びるのは己とその才覚と割り切っているようだった。帝国が入って二ヶ月もすれば、混乱していたはずの蛮族の本城は、帝国配下の賑やかな市へと元に戻る有様だった。
 クラトスは今まで駐留していた町から砂漠を越えたこちらに本隊を移し、秋には長官府から帝国の地方役人を迎えることができた。西域が帝国の手に収まったと確信できたクラトスは、ようやく、王都のリーガル大将軍に向けて、西域討伐軍が与えられた任務を達成したことを正式の書として送った。


 一息ついた彼が軍師に事の顛末を詳細に書き送ったのは、あの地方の短い秋が始まったばかりのときだった。軍師からは夏に一通だけ無理はするなと、あの奇襲の後の傷を労わる文が届いたきりだったが、彼からも返事を出すひまはなかった。それまでは、転戦につぐ転戦で、個人の時間はないも等しいものだった。
 昨日まで過酷なまでに差し込んでいた強い日差しが空遠くなったと思うと、ひんやりとした風が砂漠を吹きぬけた。クラトスは軍師への私書を書き終えた後、外にふらりと出た。狭い私室の窓からは東が望めない。戦さの間は胸の奥に納まっていたものが、この地の平定と共にじんわりと溢れ出てきた。
 それまでは、一月とおかず届いていた軍師の文が滞ったのは何故だろう。最後にいただいた文からすでに三ヶ月以上たっていた。胸の内を秋風よりも冷たい不安が過ぎった。東に向かえば、秋の空は果てなく続き、何の予兆も見えなかった。
 しかし、無意識に探る宝玉も常になく冷たく、彼の想いに答えてくれなかった。いつもは温かい貴石のぞくりとするような氷の感触は勝利に酔いしれていたクラトスをどきりとさせた。


 冬の気配が垂れ込めた灰色の空に濃厚になった頃、皇帝陛下から帰還の命が届いた。それはまさに砂漠の通商路が閉じようとする直前であった。その地を駐屯するように命じられたマグニス准将が数千の兵と共にその勅旨を届けた。
 ほんの二週間ほどの慌しい引継ぎの後、クラトスは一年前には他国であった地を悠然と越えて帰還することとなった。帝国にとっては完全な勝利であると言えたが、厳しい地での戦いは多くの兵が消耗し、帰還自体は入念な準備を整えていた二年前と異なり、それなりに時間がかかった。
 ついに、大河の脇にある懐かしい西の古都へと入ったときには、新年も過ぎ、春を告げる鶯の声が川沿いにこだましていた。王都ももう目と鼻の先となれば、兵達の足も浮き足立った。クラトスもこれだけの大軍を率いていなければ、馬を乗り継ぎ、己だけで王都に飛んで帰りたいくらいだった。
 このあたりまでくれば、愛しい方へすぐに文が届けられるのではないかと、クラトスは早馬に数回、自らの帰還を知らせる手紙を託していた。しかし、王都へ向かう前日まで、彼の手元にあの流麗な文字で記された文が届くことはなかった。そのかわり、いかにも王都からの使いらしい目にも艶やかな制服の近衛兵が皇帝陛下からの言葉を伝えに現れた。


 凱旋した彼とその軍勢は、出立と同じく天空門を通り、太和殿前で皇帝直々に迎えられた。西の古都で、皇帝陛下のお迎えがあると伝えられ、クラトスはこのところ文も寄越してくれなかった軍師も必ず陛下の背後にて待っていて下さると疑わなかった。しかし、大勢の将軍や大臣を従えた皇帝の背後に、軍師の影は見えなかった。
 リーガル大将軍が彼の凱旋と入れ違いに、西方の押さえに新たに駐屯する軍の状況の視察を兼ねて、新しく地方長官となる者を連れて出て行ったとは聞いていた。だから、戻ってきた数日は軍師も一緒にそちらに行ったのだとばかり思っていた。
 だが、王宮に落ち着くと、ひどく軍師の影が薄いことに気づいた。翌週、皇帝陛下の御前にて、今回の戦さについて詳細な報告を行った。そのときも、必ず陛下の横にいたはずの軍師は姿を見せなかった。
 ずらりと並ぶ各方面軍の将軍達の顔ぶれも二年の間にかなり入れ替わり、見知っている姿はほんの数人だった。型どおりの報告に、皇帝からのねぎらいの言葉を賜り、西域討伐軍の経緯をまとめ、その間は当面王都警備隊の後見をするようにと言い付かった。


 クラトスは冷たくなった茶を勢いよく喉に流し込み、春の夕日に暮れる執務室の中を一人歩き回った。あの砂漠の果てで生まれた不安は日ごと大きくなり、今や、抱えきれないほどの重さとなっていた。
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