唐桃

PREV | NEXT | INDEX

覚醒

「クラトス将軍、クラトス将軍」
 耳元で呼ぶ声に目を開けた。今しがたまで聞こえていた、あの優しい声はどこかに消えてしまった。側にいて確かに手を引いてくださった。あの方はどこにいったのだろう。
 ゆっくりと、薄闇は消え、はっきりと周りが目に入った。目の前に心配そうに覗き込む下士官がいた。
「ここはどこだ」
「将軍の居室です。ご気分はいかがですか」
 ほっとしたような下士官の答えに彼は身を起こそうとした。すかさず、下士官が彼の背を抱えた。
 半ば、抱き起こされるように身を起こせば、そこは、荒涼とした荒地でも、冷たい闇でもなく、この一年半をすごした見慣れた彼の私室だった。部屋には火が入り、暖かかった。
 恐る恐る、当番兵が彼の背に枕を重ね、そこにゆっくりと身を寄せる。周囲に人が立ってこちらを眺めていることが分かった。急に起きたせいか眩暈がするのを、軽く頭を振ってやり過ごした。彼が幽明の境をさまよっている間に何かが起きたに違いない。
 ここに戻ってきたときには、自軍は敵に追われていた。しかし、下士官が差し出す椀の水を飲みながら、部屋の中を見渡せば、何事もなかったかのように落ち着いている。何一つ、出て行ったときと変わっていない。違いと言えば、小さく抑えている炉の火が強めに掻き起こされ、寝室であるのに当番兵以外に数人の人影があることだけだ。
「我が軍はどうなった。なぜ、敵に追われていない」
 部屋付きの士官以外にも数名の将校が詰めていることを認めた。副官である第一師団長が明らかに安堵の表情を浮かべ、彼に向かい礼をとっていた。
 クラトスは部屋の空気だけでなく、部下達も落ちついていることを感じた。
「儀礼はこの際後回しだ。何が起きている。私はどのくらい倒れていたのだ」
「クラトス将軍、寝ていらっしゃったのは、四日でございます」
 副官が身を起こして、いつものように丁寧に答えた。その副官の姿も激しい戦の跡は見て取れない。他の将校も出立前と同じとは言えないが、それなりの身支度をしており、最後に見た疲れきった雰囲気は微塵も感じられなかった。
「それで、我が軍はどうなった。包囲されているのか。それとも、我々はすでに捕虜か」
 たくましい副官はその場に不似合いな笑みを浮かべた。この男でもこんなに嬉しそうな笑顔ができるのだと、全く関係ない思いがクラトスの胸に浮かんだ。
「それが、現在、我が軍は敵を追走中でございます。将軍が身を挺して兵を守られましたことが皆に感銘を与えました。クラトス様に助けられたからには、将軍をお守りせねばならないと皆奮い立ちました。
 実際、クラトス様が撤退してこちらに入られた晩、大変な数の敵軍がこの町目前まで迫っておりましたので、皆、討ち死に覚悟で町を出ました。ところが不思議なことに、我軍とあちらが向かい合いましたとたんに、あれほど良かった天候が急に悪くなりました。いきなり、大雨が降り出しました。
 こちらに来て見たこともないほどのひどい雨で、あふれ出た水に敵の 騎馬が足を取られましたところに、激しい落雷がございました。それはもう、伝説の竜神が舞い降りてきたかのようでした。
 そのとき、我軍は町から降りる丘の途中におりましたが、落雷も受けず、もちろん水が出るほどの低さではございませんでした。結局、相手は相当な痛手を蒙ったようでございます。そこで、将軍のお早い判断で我が軍はさほど消耗しておりませんでしたので、居残っておりました我が第一師団を中心にすかさず追い討ちをかけました」
 クラトスは信じられない気持ちで話を聞いていた。助かっただけではない。敵は敗走している。それは、奇跡でなければ、何なのだろう。
 そうだ。答えてくださったのだ。胸の宝玉を押さえた。それは、ひんやりとしたまま、何も反応しなかった。だが、彼には確信があった。
「分かった。お前達はここで何をしている。今も追走中であるなら、私の部屋に用はなかろう」
 副官はさらににやりと笑い、クラトスの責めるような言葉に悪びれずに答えた。
「は、すでにこの三日間であちらの主力である騎馬隊は壊滅させました。 現在、私の下にあります第一師団と第二師団が歩兵を中心に草原半ばにて陣地を張っております。本日は我が軍の再編成について検討をするつもりで、副部隊長をこちらに送り、当初は私は前線にて睨みを利かせている つもりでおりました。
 しかしながら、早馬にて、クラトス様が大変具合を悪いとの報せを受けまして、慌てて戻って参りました。その、失礼とは存じましたが、もしもの場合の対応について他の師団長、大隊長と話をしようとしておりましたら、何のことはない、クラトス様が気づかれたということで、こちらに集まった次第です」
 嬉しそうに語る副官と残りの師団長を見渡し、クラトスは確信した。敵を討つきっかけを作ってくださったのもあの方だ。苦しみから彼を救い、声をかけて呼んでくださったのもあの方だ。与えてくださった機会を大切にせねばならない。今、クラトスが目を覚ましたのも理由があるに違いない。
「お前の対応は当然だ。それでよい。だが、お前達がここにいるということは、すでに部隊の編成は終わったのか」
「以前、クラトス様がこのようなことを想定されておられましたので、そのご指示をもとに、動ける騎馬を中心に、新たに機動力が上がるよう、組みなおしました。クラトス様にご報告の後は、これより、直ちに出立する予定です。兵達もすっかり準備は終わりました」
「では、私も出よう」
 クラトスは、これから来るであろう痛みを思い、部下の前で無様な姿をさらさないようにと歯を食いしばり、寝台から立ち上がった。だが、予想していたつらさはなかった。傷はどうやら塞がったらしく、痛みは十分動きに耐えられるものだった。熱も下がっているに違いない。体はひどく軽かった。
「将軍、お体が……」
 彼を支えようと、当番兵と副官が両脇に近づいた。それを軽く手で制し、武具を乗せている簡素な卓へと歩いた。
 足も思いのほか軽く動いた。卓の上の武具もすでにきれいに手入れはなされていた。
「四日も寝ていたからな。もう体はすっかり動くようになった。私が元気なところを見せれば、皆もさらに奮起してくれるだろう。直ちに出陣の支度をしてくれ。私の準備ができ次第、討って出るぞ。ここで完全に追い落とし、あちらに攻め込むぞ」
 不安そうにしていた彼の部下達も、その言葉を聞けば嬉しそうに剣を立てて、彼に忠誠をしめした。
「先陣はお前がまとめろ。私は最後尾から行く。まだ背後の固めが第四のままであるなら、第四大隊は私についてくれ」
 前線を熟知している副官に先に動き出すように指示を出せば、そろって将校達はクラトスに深々と礼をし、部屋の外へと出て行った。
「馬の準備をするように伝えろ。私の馬は生きているのか」
「はい、傷は深くございますが、厩にて面倒を見ております」
「そうか。あれは活躍してくれたが、今回は連れていけそうにないな。新しい馬を用意するように伝えてくれ」
「クラトス様がご出陣だ。馬を引け」
 廊下に向かって下士官が叫べば、陣全体に風のように喜びの雄たけびが広がっていった。
PREV | NEXT | INDEX
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送