唐桃

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彷徨

 突風がいきなり吹きつけ、その風の勢いに彼はよろけた。どうにか、息と整えようと、側の赤レンガ色にも灰色にも見えるざらざらとした石が土からむき出している崖に手をついた。冷や汗の滲む指の先からぼろぼろと砂が零れ落ちた。
 クラトスは見知らぬ荒地を一人歩いている。周りには赤茶けた石ころや砂ばかりで、草木の一本も見えない。当てもなく彷徨う彼の前には、砂塵が立ち上り、行く手は何一つ判然としなかった。道だと思う先はすぐに荒い石がころがる崖となり、振り返った先にたどってきたはずの道は見えなかった。
 まるで、誰もいない荒れ果てた後宮を歩いているようだ。捜し求めているあの姿は見えない。ちらりと先に青い影が動いた。きっとあちらだ。よろける足を、苦しい息を我慢し、もてる力を振り絞って、狭い道を曲がる。
 追いついたと思ったところは、やはり、荒れ果て、何もない地面がむき出しになっているだけだった。再びひとしきり風が吹き、冷え切った体は動こうとしない。足は鉛のように重くあがらず、腕はだらりと下がったままだ。
 いつものように剣を探ろうと力ない手が腰をかすめた。慣れ親しんだ感触はない。よろよろと目の前に上げた手には鋭い刃の短刀が一振りあるだけだ。他の装具はどこに行ってしまったのだろう。皇帝陛下から賜った武具はどこに置いてしまった。この道の険しさに、体のつらさに一つずつ置いてきてしまった。いや、最初から何も身につけていなかったのだろうか。どうしてここにいるのか、思い出せなかった。
 風を避けようと、今に崩れ落ちそうな岩の回廊に背を預ける。座りこんでも体は楽にならない。息はあがり、いやな汗が顎から地面へとしたたりおちた。乾燥した大地に吸い込まれた汗はたちどころに消えた。のどが渇く。しかし、どこを見渡しても水があるようには見えない。風化して、化け物のような影を落とす崖が行く手を遮っていた。
 彼の大切な兵達はどこへ行ったのだろう。いつもなら、たちどころに返事を返す忠実な将校達の姿はどこだ。どうにか立ち上がり、辺りを見回す。生き物の気配は何一つない。声をあげて呼ぼうとしたが、乾いた喉からは掠れた空気の音がするだけだ。
 そうだ。守りきれなかった。自らが隙をつくり、預かっていた軍を崩壊させた。皆、失ってしまった。彼の手には鋭い刃の短刀以外、何も残されていない。口のなかがざらざらとし、咳き込むと、血がこぼれ落ちた。ああ、もう駄目だ。傷が体の中まで侵食してきている。この荒れ果てた道の先にはもう一歩も進めない。
 クラトスは震える足が彼の意志に反して崩れ折れるのを感じた。膝をつき、手で体を支える彼の眼の前にざらざらした砂と土が見える。ここで横になれば、楽になれるはずだ。少し、休もう。眼をつぶれば、きっと息が落ち着く。
 どれだけ、地に横たわっていたのだろう。もう、起き上がろうにも体は動かない。冷たくごつごつした大地に体が溶けてしまったようだ。
 眼を開くと、遠く青い空が上に広がっている。あの青い色は覚えがある。王都でいつも見上げていたあの方の色だ。だけど、もう見ることは適わない。彼は全てを失ってしまった。横たわる地の上で体は燃えるように熱く、深い傷からはじくじくと血が流れ落ちていく。
 息をするのも苦しい。頭の中が割れるように痛い。せめて、自分の体が動くうちに、手が自分の意志で動く内に、全て終わらせるべきだろうか。重たい手をどうにか持ち上げる。喉元にするどい短刀の切っ先が触れた
 与えられた任務には失敗いたしました。全てを失いました。もう動けません。何も考えられません。もう一度だけお会いしたかった。だけど、もうそれも無理です。兵達と共にあなた様をあちらでお待ちします。
 小さく名を呼んだが、もちろん、答えはなかった。
 クラトスは震える手で短刀の柄を握り締める。だが、彼の手は彼の意志を裏切り、手は力なく落ち、喉元を冷たく滑り短刀はどこかへ消えた。探る手は砂を握るだけだ。彼には何一つできることはない。このまま、最後のときを待つだけだ。
 目を閉じると、冷たい闇が彼を覆った。周りの空気は氷のように冷たく、息をするたびに胸が痛む。記憶はちりぢりに虚無へと飛び、目は何も映さない。


 真っ暗闇に横たわる内に何度も彼を呼ぶ声がかすかにこだました。
 間違った場所に行ってはいけないとひんやりとした冷たく白く細い指が彼の髪に絡められた。お前は約束しただろう。そんなところで横たわっていては駄目だ。将は率いる兵達を見捨ててはならない。将は己を慕う部下を見捨ててはならない。お前は私を見捨ててはならない。さあ、起き上がり、私を探しておくれ。
 だが、彼の足は力なく地の表面をかすり、手は空を掴むだけだ。彼は灼熱の苦しみに耐えられない。
 できることは精一杯しました。もう、これ以上我慢できません。お許しください。
 謝ろうと大切な人の名をもう一度呼んだ。
 だめだ。帝国の武官がその程度で何の泣き言を言う。お前は動けるはずだ。起き上がれるはずだ。さあ、目を覚まして。私のところに戻ってくると誓っただろう。
 誰かが彼の名前を呼ぶ。
 私を呼ぶ声は聞こえた。私は約束を果たした。お前に応えてやったからには、お前は戻ってこなくてはならない。クラトス、必ず戻ってくるのだ。


 最後にと開いた目に青い空が入り、胸の上で宝玉がわずかに震えた。
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