唐桃

PREV | NEXT | INDEX

嘆傷

 永楽宮は後宮の正門から入ると正面に位置する。当初、後宮はこの建物のみであったが、人が増え、歴代の皇帝が数多い妾姫や係累の者を近くに住まわせる内に手狭になり、背後に慶寿宮、長春宮と建て増されていった。
 永楽宮と慶寿宮の間には、表からの出入りに利用される通用門から続く回廊が何回も折れ曲がりながら連なっている。その脇に、歴代の皇帝が集めた貴重な品物が収められた宝物庫があった。
 いつもより執務を早く終わったにも関わらず、皇帝は疲れを覚え、春の月を楽しむ余裕もなく、さっさと自分の私室へと戻った。東方から届けられた目にも艶やかな紫水晶の数珠も、南方から戻ってきたリーガルが献上した見事な絹織物も少しも心を弾ませなかった。西方の軍事情勢はもちろん順当に進んでいるとの報告に、喜んでいる表情を浮かべてみせる気遣いもいささかあきていた。
 肝心の軍師が側にいなければ、取り繕う気も起きなかった。定例の御前会議には顔を出すが、不定期な会議にはよほど緊急なことがないかぎり、軍師はほとんど出席しない。今日は、臨時とはいえども、帝国の大将軍リーガルが戻ってきてすぐの報告なのだ。当然、顔を出すかと思っていたが、一昨日から東方の郷に視察に出て、いまだ戻らないと文官が伝えに来た。
 軍師は傍から見る分には何の文句もつけようがないほど、勤勉に過ごしていた。だが、ミトスにとっては、その勤勉さは彼を近づけないための言い訳にしか見えなかった。隙を作ろうとしない軍師の姿勢に、それ以上頑なな態度を取られないようにと、零れ落ちそうになる言葉を抑える度に、激しい焦燥感が苦しかった。
 たまに、軍師がこちらを見て何かを言いたそうに、あの形のよい魅惑的な唇を少し開きかけ、彼の表情に驚いたように黙り込む。彼が触れようと伸ばした指の先にあるするりとした髪が、風に吹かれて逃げていく様は、軍師の心そのもののように感じられ、ひんやりと冷たいものが胸を過ぎる。
 何も変わらないじゃないか。西方の情勢が届けば、周囲は皇帝の望むことを伝えようと、すぐにでも潰れると思っていた若い将軍の活躍をことさらに強調する。心の底で望んでいるのは真逆なのに、お笑いだ。それこそ、軍の大半を失って、もう戦えないほどの敗北を喫せばよいのに、次の年はまた討って出られると報告される。それを聞いて、西方への支援はするなとも言えない。せいぜい、早く攻めよと急きたてるぐらいしかできない。
 ミトスは身近な世話をする侍従も下がらせ、一人でごろりとだらしなく寝台に寝転んだ。心に降り積もり塵はどんどん色濃くなり、彼の胸を鷲掴みにする。怒りとも焦りとも、あるいは、嘆きともつかないそれは、彼の喉元までつまり、息さえもままならないようだった。
「ユアン」
 呼んでも、現れることなどないのに、口からこぼれでた。皇帝ともあろう者がこんなことで涙をこぼすなどありえない。わが身の横に無理やり置くことは簡単だ。だが、軍師の体以外の全ては二度とこちらを見ないことも分かる。置物は必要ない。それなら、同じ形の陶器の人形を作ればいいのだから。
 矢も立てもたまらず、ユアンの部屋へと押しかけたかった。こんなに苦しんでいる彼を見れば、以前のように優しく話を聞いてくれないだろうか。真っ直ぐ、心配そうにこちらを鮮やかな青の目が覗き込むかもしれない。がばりと体を起こし、だが、不安に揺らぐいつもの軍師の眼差しを思い出し、また、勢いよく寝台へと倒れこんだ。


 皇帝はむくりと起き上がった。いつの間に寝込んでしまったのだろう。周りを伺う。部屋にはもう消えそうな灯火がまたたくだけで、しんと静まり、何も変わりなかった。だが、尋常ならざる強い気が放たれるのを感じた。
 寝台の脇を見れば、常ならざる気に彼の剣が蛍火のように青白く光っていた。これだけの気を使える者は己を除いて一人しかいない。まだ、肌寒い春の夜に、寝入って落ち着いたはずの心が乱され、体が熱くなった。
 この剣を通さず、これだけの気を放つことは、ただの人の身ではできない。ミトスは永楽宮を出ると真っ直ぐに宝物庫へと向かった。背後を数名の警備兵が慌てて追いかけてくる。案の定、宝物庫を守っているはずの兵達は眠りこけており、厳重に封印されていたはずの扉は開いていた。
「皇帝陛下、お下がりください。調べてまいります」
 踏み込もうとする身辺警護の兵を押し留めた。
「何も邪気は感じない。それに、お前達が行っては眠らされるだけだ。私はこの剣があれば、何も危険はない。私がよいと言うまで決して入ってくるな」
 一歩、宝物庫に入ると、さきほどの予感はますます高まった。この先にいる者の気を間違えることはない。ミトスはゆっくりとその気を感じながら、目的の場所へと足を進めた。
 灯りもつけられていない宝物庫は、しんと静まり返り、誰もいないかのようだった。だが、ミトスは何も見えない闇の奥に、冷たい立像のように動かない者へ声をかけた。
「ユアン、何をしている」
 中にいた者は、彼が来ることを分かっていたからか、返答もしなければ、振り向きもしなかった。ユアンの場所からは紫色にも濃い青にもみえる気が立ち上り、ミトスの眼にははっきりと軍師の姿が浮かび上がる。皇帝はつかつかと軍師の背後へ歩み寄った。
「ユアン、それを使って何をした」
 神聖にして皇帝のみが触れることが許されるはずの曇り一つない水晶球に指を触れ、彼の軍師は目を閉じ、青ざめた顔で立っていた。水晶球はさきほど放たれた力の大きさを物語るかのように、まだ、それ自身がわずかに光を放っていた。
「覗いて、少し気を放っただけだ」
 問いかけられても、軍師は目を閉じたまま、まだ、水晶球に触れている。ミトスはその手を払い、水晶球の周りに結界を張った。だらりと力なく手を落とし、軍師がゆらりとミトスの方を振り向いた。
「その球に触るな。お前は私に全ての力を渡したはずだ。それなのに、なぜ、今勝手に使う」
 どこまでも見通すような青い目がゆっくりと開き、ミトスを見つめた。
「わからない。なぜ、力が使えたのか分からない。だが、呼ばれてしまったのだよ」
 その目は悪びれてもいなければ、困ったようでもなかった。形よい口はただ淡々と事実を述べた。ミトスはまるで他人であることが初めて分かったかのように、お気に入りの軍師を眺めた。
「ミトス、本当に分からないのだ。遠くから呼ばれた。その声に応えようと、部屋を出たまでは覚えている。後は、お前が見ているとおりだ。気づいたら、この水晶球の前にいた。触れていた。この水晶球は皇帝の血の者にしか反応しないはずだ」
「それなら、何故、お前が触れても反応する。お前は何者だ」
「ミトス、お前が呼び出したものだ。だが、私とてそれ以上は知らない」
 ユアンもそこでようやく困惑したように首を傾げた。
「お前の剣に全ての力を授けた。なぜ、その私がこのようなことをできたのだろうか」
 口からゆっくりと言葉を吐き出し、軍師は考え込むように頭を傾げた。ミトスは軍師が無意識の内に放っている青白い気を見るともなく眺めた。彼とは全く異なるひんやりとした気は、力を失い、今は軍師の長い髪をふわりと広げているだけだった。
 ミトスは思い返す。
 父皇、急逝の報を受け、並み居る将軍達が彼を眼の前に跡継ぎの相談を始めた。誰も国の危機に気づかず、血筋が、しきたりが、とくだらないことに騒ぎたてていた。誰一人、彼が帝国の存亡について心配していることに取り合ってくれなかった。
 誰からも認められない、孤独な少年が救いを求めてこの場に来たとき、水晶球は確かに輝いていた。誰がどう答えてくれたのだろう。眠っていた剣を持てと彼に教えてくれた姿は確かにこの軍師だったはずだ。だが、あのとき感じた気はもっとはっきりと色濃く、強かった。ユアンは、彼の求めに応じ、この場に来てくれた。彼を救うために、その力を確かに剣に封じたはずなのだ。
 互いに言葉もなく立ち尽くす。
 突然、軍師は、驚いたように胸に手を当てた。その表情の変化に皇帝は何事かがまだ続いていることに気づいた。ユアンは水晶球に触れようと手を出し、ミトスが張った結界に弾かれ、激しい火花が散った。
「ミトス、お願いだ。もう一度だけ、水晶球に触れさせてくれ。これで最後だ」
「クラトスに呼ばれているんだね。駄目だ。あれのために、これを使わせるつもりはないよ」
「ミトス、頼む。後一度だけだ。お願いだ」
 軍師は、いきなり膝をついて頭を下げた。儀礼ではない心底の懇願をする軍師の姿にミトスは顔をゆがませた。マーテルとの婚儀を求めたときだって、こんなことはしなかったのに。誇り高い軍師が膝をつき、縋るように彼を見上げる。
 決して許せない。私が呼んだのに。私の求めに応じたのに。私の手の中にいたはずなのに。
「ユアン、約束できるかい。クラトスと二度と会わないと約束できるかい。あの裏切り者をお前が見つめなければ、もう一回だけ使ってもいいよ。ただし、私を納得させる証を差し出せばだけどね」
「約束しよう。私はクラトスとはもう会わない。お前が欲する証は差し出す。お前の望むとおりにしよう。だから、……」
 皇帝はちらりと軍師を眺め、結界を解いた。
PREV | NEXT | INDEX
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送