唐桃

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慕情

 春の砂嵐が過ぎると、白茶けたようにくすんでいた大地はいきなり緑の絨毯に変わった。日差しもある日を境に強くなったと感じたかと思えば、まるで夏のように目をも射抜く明るさとなった。
 だが、この明るさに騙されてはならない。西の薄暗い雲をさして、この地方出身の仕官が雪が降ると言った。周りの将校達は皆その言葉に笑ったが、数時間後には分厚い雲に覆われ、まるで夜のようになったかと思うと、冷たい空気と共に小さな氷の粒が落ちてきた。
 クラトスは、一日の中だけで目まぐるしい季節の移り変わりに、出陣の機会をなかなか決められなかった。二万の兵の維持も考え、短期決戦で攻め、早々に趨勢を見定めるようにと、皇帝陛下からはすでに二度ほど指示を頂いていた。しかし、兵の数だけが圧倒しているだけで、転進してきて数ヶ月では準備は万全と言い難かった。今までも帝国とそれなりに有効な態度を保っている草原南の部族との関係は、季節柄、人の往来も少なく、時間もかかり、彼が来てからさほど進展はない。そのために徴用できた騎馬の限られている上に、歩兵は数はともかく、この地を知らない兵が大半を占めていることに不安を感じていた。
 背後の守りは必ず固めろとの軍師の指示に従い、信頼している副官をこの町に置くことにした。王都から遠く離れたこの地に来ている兵達は、早く戦を仕掛け、戦果とともに早く都へ戻りたい。彼よりも年上の将校達は、今までの経験から、この厳しい風土で厭戦気分が兵達に漂う前に決着をつけることを望んでいた。
 クラトスも一番気心の知れた副官が側にいないまま、全軍を率いることも少々心もとなく感じており、その彼の自信の無さはたちどころに配下の将校にと伝わる。相応の兵を背後の守りに置いていくことに副官も含め、早期決着を望む他の将校達も消極的だった。配下の将校達は集まるたびに、クラトスへすぐさま全軍で討って出ることを嘆願した。
 しかし、軍師の忠告もさることながら、もともと慎重な彼は配下の将校達ほどには楽観的になれなかった。彼も含めて、草原とその先に延々と続く乾燥した荒地の上で戦を経験した将校は一人もいない。今までは、常に背後に帝国そのものが寄り添っていてくれたが、この地では自軍のみが頼りなのだ。また、草原の掌握は第一歩であり、敵はその奥で陣を構えている。
 結局、三日前に、クラトスは副官と主だった部隊長を引きつれ、数十騎で西の偵察へと出た。互いに納得するためにも、この地の厳しさを自らの目で見ることが必要だと気づいていた。騎馬を駆っても変わらぬ景色、どこまでも見渡せる平原、とぼしい野営地、それは、クラトスが机上で懇々と説明するよりも遥かに説得力があった。
 当地で愛用されている丸い天幕の入り口から、クラトスは激しく打ち付ける雪礫を見つめる。案内役に連れて来た地元出身の士官が手際よく立てた簡易の天幕は霰を浴びて激しい音を立てている。背後の将校達もクラトスと同じことを感じてくれているだろう。
「クラトス様、この先につきましては、我が大隊より兵を出し、案内役と共に現在より入念な地図を作成いたします」
 最も強く討って出ることを主張していた彼の父と同じ年配の将校が背後から声をかけてきた。
「クラトス将軍、町からの補給手段と兵の移動については、明日にでも再度検討させてください」
 進攻に際し、最後尾を預けようと王都警備隊から、副官と一緒に引き抜いてきた信頼している第四大隊長が機会を逃さず声を大きくした。
 後は自然とクラトスを囲んでの討議が始まった。クラトスは、この軍の先頭に立って王都を出て以来、ついに舵取りがうまく運んだことを悟った。

 

 帝国軍が進撃を始めたのは、晩春というにはやや遅い時期であった。草原の南に位置する部族との和平協定にかなりの時間を費やしている間、二万の軍はほぼすることがないまま、草原を臨む緩やかな丘陵の上に陣取っていた。出陣の号令は、身を持て余す兵達にとってはある意味朗報ともいえた。
 よく訓練され、隅々まで指示の行き届く帝国軍はたいした抵抗にも合わず、快進撃を続けた。二ヶ月程度でもともと帝国の領土と見なされていた広大な草原地帯とその中に点在するオアシスを獲得し、草原の西の端に陣を構えた。
 そのまま、広大な砂漠の北に位置する蛮族と相対したまま夏を迎えた。この勢いで夏には相手国に攻め入るのも時間の問題と明るい雰囲気が軍のなかに流れていた。
 だが、クラトスは地元出身の兵が首を傾げるほどの気候の激変に攻め入ることを躊躇っていた。例年なら、まだ一ヶ月は後になってから吹き始める熱砂の嵐が今年は夏を迎えてすぐに襲い掛かった。西方の民にとっても記憶がないほどの暑い夏は、それを初めて迎える帝国軍にとって厳しいものだった。乾燥した草原地帯の夏は知らぬ内に体力をそぎ、経験をしたことのない気温と汗が流れる側から乾くほどの乾きに兵達は皆消耗し、敵国を目前に帝国軍は押されがちになった。
 一度揺らぎ始めると、クラトスが恐れていたように、細く点々としか続かない兵站は脆く、要のオアシスの住民は弱り出した帝国に恭順しなかった。
 さらに追い討ちをかけるできごとが起こった。
 早めに手を打ち、春までに収まったかに見えた地方特有の高熱の病が夏が終る頃にまたも流行りだした。冬とは異なり、戦で体力の落ちた兵の間にあっという間に広がり、兵士の四分の一が動けなくなった。死者も相次ぎ、兵達の間に動揺が走った。もちろん、疫病は敵側にも損害を与えていたが、それを差し引いても、帝国軍の被害は甚大であった。
 秋になると、敵側に余裕が出てきたのか、あるいは、帝国軍の出方を伺っていたのか、局地的に激しい攻撃に晒されるようになった。季節のよい内に退かねば、さらに大きな損害を被ることが予想された。やむを得なく、クラトスは本格的に冬に入る前にいったん全軍を砂漠を西に臨む草原地帯の東端まで引いた。
 失われた地歩は痛かったが、敵側も疫病とその前の帝国軍との戦で相当の兵を失っていると、放った謀間から情報を手にした。そうでなくとも、通商のもっとも重要な地域は帝国が押さえているため、あちらの国力も相当削がれているはずだった。おそらく、冬は撃ってでてはこないであろうとクラトスは予測した。
 草原の果ての蛮族の国々は皆、通商で成り立っている国ばかりだ。東の帝国からの流通を押さえれば、離反するものも多くでるはずだ。その間にこちらを立て直し、さらに北の強大な蛮族と敵対する南の騎馬族への和平を取り付ければ、春には総攻撃できるだろう。
 クラトスは町に戻るとすぐに、治安の強化に力を入れた。ゼロス宰相補佐や軍師に書状を送り、西方への物資の輸送と商売への奨励をもう少し手厚くしてほしいと頼んだ。
 思いの他、ゼロスからの反応は早く、本格的に冬を迎える前に人の流通が目に見えるように増えた。たちどころに、通商路として活気を得る。はるか数千里と離れてはいても、ここまでは、帝国の力の範囲を抜け出していないことが分かった。
 相対する国の思惑とは異なり、互いに利害の共通する双方の商人達の間でこっそりと続けられる西との交易で、町はいっそう賑わいを見せていた。
 

 この辺りの冬の厳しさは格別だ。たいして雪が積もりわけではないが、気温はぐっとさがり、昼間と言えどもうかつに外を歩けない。クラトスはそのなか、町の外に陣をはる兵士達の様子を見に、ゆっくりと周りを歩く。
 夏には地を覆っていた草はすっかり枯れ、下がる気温に一本一本の形がはっきり分かるほど、固く霜が凍り付いている。ざくざくと音を立てて霜を崩しながら、クラトスは陣の先、西を臨み、守りを固めている門の方へと進んだ。
 頭のてっぺんから足のつま先まで、枯れ草と同じように白くなっている当番兵にねぎらいの声をかける。兵達は、クラトスがここまで訪れることに驚きと戸惑いを見せていた。
「将軍、こんな日までこちらにいらっしゃらずとも、私どもの兵はきちんと詰めております。それに、これは守りの基本でございますから、兵を甘やかさないでください」
 主として町の治安と守備を担っている副官が寒さに辟易としながら、クラトスの背後から声をかける。
「だが、この寒さは本当に外にいる者たちでなければ、理解できない。お前達の苦労は分かっている。しかし、これが要だから、しっかり頼むぞ」
 クラトスは副官の文句にかすかな苦笑いを浮かべて、側でやりとりを聞いている兵達をながめた。王都を離れて一年半、遠く西方の気候も言葉も習慣もまったく異なる地にいながら、まだ、士気があることを確認したかった。彼の言葉にうなずく兵達は確かに大丈夫だ。
「さて、外の雪を見たい。お前はここで兵達と最近の状況について詳しく聞いてくれ」
 クラトスは着いてこようとする副官をその場におき、そのまま真っ直ぐ門の外へと歩いた。
 冬に入ると、王都との連絡も季節柄遅れ気味となる。ここ一月、心待ちにしている軍師からの便りはなかった。愛しい方の便りを見てから手紙を書こうと思っていたが、もう待てない。そんな焦る気持ちを誰もいない景色を見ることで沈めたかった。
 ほんの数十歩も歩くと、辺りはうっすらと凍りついた雪に薄っすらと覆われ、風が激しく吹きつけるだけだった。まるで、彼の心の中のようだった。誰も溶かす人のいない白と黒だけの淋しい景色。
 淋しい。あなた様にお会いしたい。愛しています。
 誰も聞いていないのをよいことに、声に出す。狭い陣中では、心の奥底に隠している願望を吐き出すこともままならなかった。
 突然、風が弱まり、小さな渦ができたかと思うと、彼の周りを取り巻いた。ふわりとかすかな甘い香が漂い、クラトスはその風へと手を伸ばした。抱きしめるように風はそよりと周りにひとしきり止まり、次の瞬間、強い西風がそれを吹き飛ばした。
 西風に散らされた香を追うように振り向くクラトスに兵が何か合図を送ってきていた。まだ、今の風の名残を捜し求めたかったが、そうもいかない。ゆっくりと戻るクラトスの耳に兵の呼ぶ声がした。
「将軍、王都から連絡が届いているとのことです。至急、お部屋へお戻り下さい」
 きっと、あの方が教えてくださるために、あの風を贈って下さった。よい便りがあるに違いない。知らずに足は速くなった。
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