唐桃

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駱駝

 王都では、春が駆け足で去り、いつもより早く夏が訪れた。初夏というのに、毎日朝から暑く、強い日差しに中庭にゆらりと陽炎が踊っている。西から押し寄せる熱風に、軍師は西方の気候の厳しさを思いやった。例年にはない厳しい暑さに、回廊では少しでも涼を得ようと侍女達が水を撒いている。昨日の会議では、ゼロスが今年の農作物の出来を心配していた。
 初夏の日差しは、年老いた庭番が朝、晩と水遣りに励んで、相変わらず見事に巻きついている夜来香の棚に遮られている。おかげで、長春宮のユアンの執務室は幾分涼しさを保っていた。それでも、軍師は朝早くから続く暑さに耐えかね、手元の扇子を取りひとしきり仰いだ。
 この暑さでは仕事もはかどらない。午後、日が落ちるまでは休んでいよう。机の上に束ねられた書類には手を伸ばさず、軍師は執務机を離れ、夜来香の棚がある窓横に座った。
 クラトスと並んで中庭の景色を見ていたその場所には、アリシアが贈ってくれた西方の動物の置物を置いていた。横に手を伸ばし、小さな陶器の駱駝をくるりと向きを変えてみた。それは明るい茶と緑で染付けされ、馬よりもやや背の盛り上がった不思議な形をしていた。この妙な格好をした生き物が荒地を歩いている景色をしげしげと見ているクラトスの姿がふいと見えた気がした。


 西方への帝国軍のいきなりの移動はその周辺地域に脅威を与えるたようだ。先日皇帝への献上品として、生きた駱駝が先週到着した。王宮の主だった者は、皆、その風変わりな大型の生き物を一目見ようと大賑わいだった。ユアンもクラトスが見ているかもしれないと思えば、急に気になり、このところ避けていた皇帝の呼び出しに応じた。
 異国の生き物はどうやら王都の暑さにもびくともしないらしく、のんびりと王宮の馬場に立っている。ユアンから見ればどうにも間抜け面をしているその動物をミトスはどここがいいのか、ひどく気に入ったようだった。
 宴を後に控えたお披露目会でもミトスは上機嫌だった。飼育係が皇帝の前に駱駝を引いてくれば、皇帝陛下は大変なはしゃぎようで、早速乗ろうとする。軍師やゼロス宰相補佐が必死に止めるにもかかわらず、皇帝は皆の注目の中、駱駝の上に乗り、王宮の馬場を数周した。どうやら、性質は大人しいらしく、皇帝は馬と同じく易々と操り、周りの貴族達から賞賛を浴びていた。
 その珍しい生き物を献上した草原の南にある広大な郷の太守を招き、宰相とその息子ゼロスによる王宮の馬場の横に広がる広大な庭で園遊会が催された。今日のためにと、皇帝の席を高めにしつらえた巨大な天幕が用意され、その周りには東屋のような小さな円形の天幕がいくつか張られている。それは、噂に聞く駱駝が連れてこられた西方の住処を模した天幕が用いられており、天幕の上には華やかに帝国旗、皇帝旗、そして主催するワイルダー家の紋章がはためいていた。
 軍師は暑さを少しでも凌ごうと、淡い水色に染めた麻の長衣に、透けるほど薄く織られた濃緑色の絹の上着を重ねていた。熱風が長い服のすそを揺るがしたが、汗がひくほどではなかった。ゼロスの計らいで、軍師は皇帝のいる中央の天幕からやや離れたごく小さな天幕の下に座っていた。彼の横にはリーガル大将軍の妻が付き添っていた。アリシアは嫁いだときより幾分ふっくらした面立ちになり、淡い黄色の裳すそを引く服とゆったりと纏っていた。二人で過ごすのはアリシアが結婚していらいのことだった。
 嫁いでまだ一年に満たない新妻は、軍師でさえ見惚れるほど美しくなっていた。
「ユアン様、今日はアリシアをよろしくお願いいたします」
 中央の天幕で皇帝の相手をするはずのリーガルが顔を出し、律儀に挨拶をする。
「リーガル、お前とは毎日のように顔を合わせているから、ここにいる必要はない。ミトス陛下の相手をよろしく頼む。賓客もいるから、ゼロスが調子に乗らないよう見ている者が必要だ。また、陛下が駱駝に乗りたいといったら、ゼロスと一緒に必ず止めるのだぞ」
「ユアン様、確かに承りました。しかし、ユアン様でも陛下をお止めすることは敵いませんのに、私では力不足でございます」
「大丈夫だ。力ならお前の方がある。よいから、もういけ」
 アリシアは相変わらずの二人のやりとりに噴出していた。
「お父様、お元気そうですね。後宮にはなかなか上がることも叶いませんのでご無沙汰しております。この前、差し上げましたお文はお読みいただいてますでしょうか」
「アリシア、お前こそ元気かい。お前には嫁いだ先でもいろいろと気を使ってもらって助かっているよ。この前、送ってもらった文は何度も読んで、大切にとってある」
「それはようございました」
「しかし、アリシア、体は大丈夫か。こんな厳しい暑さに、このような場所に出てもいいのだろうか」
 軍師が心配そうに隣に座っている娘を見た。アリシアはそんな軍師の表情に軽く笑った。
「お父様、これは病気ではございませんので、ご心配いりません」
「だが、少しやつれたように見える。嬰児ができると気分が悪くなることもあると聞いた。リーガルは分かっているのか。リーガルにもう少しを仕事を減らして、お前のことを見るように言ってやる」
「まあ、お父様。これは誰しもが経験することでございますので、どうぞ、リーガル様のことをお怒りにならないでください。それより、今日は、クラトス様からのお文、直接お持ちいたしました。とても気を使って包んでございましたので、私が直接お渡しした方がよろしいかと思いまして。こちらをどうぞ」
「いつもすまないね。公の文とは一緒にしたくないのでね」
「私は一向に構いません。どのみち、お父様には私からも文は差し上げているのですから、一緒にお届けすることは何の手間もございません。それで、クラトス様はお元気に過ごされていらっしゃるのでしょうか。リーガル様に進攻は順調と伺いましたが、何分にも人が暮らすには厳しい地と聞いております」
「ああ、元気そうだ。だが、あれは真面目だからね。私にも自分のことはほとんど書いて寄越さないのだ。町の様子とか土地の習慣とかそんなことばかりだ。気のきかない奴だ」
「お父様もご自分のことはお書きになっていらっしゃらないでしょ。そんなお淋しそうな顔をされていらっしゃることをクラトス様がお知りになったら、どんなに心配されることでしょう。きっと、無事にお戻りになりますから、もう少しごゆるりと過ごしてください」
「私は平気だ。淋しくはない」
「お父様、無理は禁物です。それで、今日、私をお呼びになられましたのは、何かご用がございますのでしょうか」
「アリシア、私はお前の顔が見たくてゼロスに頼んだのだ。用があるわけでは……」
「お父様、もちろん、私もお父様にお会いできますのは嬉しいです。でも、何かお困りのことがございますのでしょう。お顔を拝見すればすぐにわかります」
「お前には敵わないな。確かに、リーガルやゼロスに言えば、すぐに大事になりそうだからな。だが、お前は今は大切な体だ」
「どうぞ、お気遣いなく。男の方にはお分かりになりませんでしょうけど、本当に大丈夫なのです。リーガル様も何かというと心配してくださるので、困っております。それでなくても、気を使ってくださっているのに」
「そうか。アリシアの惚気も久しぶりだな。では、お前の言葉に甘えようか。だが、無理はしないでくれ。それに、他の者には、リーガルにも当面は内緒にしてほしい。その、王宮の外に住むところを探したいのだが、伝手がなくてな。急いではいない。あ、その、手頃な大きさの、何と言えばいいのだろうか、お前達が住んでいるほどの館は必要ないのだが、……」
「お父様、クラトス様とご一緒にお住まいになられる場所を探されているのですね」
「大きな声で言うな」
 軍師が顔を赤くするのを見て、アリシアがくすっと笑った。
「わかりました。クラトス様がご帰還になられたら、すぐに入られるように、お気に召される場所を探して、準備いたしますわ」
「アリシア、すまないね。お前ばかりが頼りだ」
「いいえ、私を今まで大切にしてくださったのはお父様ですから、今度は恩返しをさせてください。お二人がお気に召す場所には少々心あたりがございますから、お任せください」
「私とクラトスではずいぶんと好みが違うぞ」
「いいえ、お父様、お分かりになっていらっしゃいませんの。お二人とも武官の典型ですもの。クラトス様もお父様も何も構われず、実質本位でいらっしゃるのは、それは大変よく似ていらっしゃいますわ」
「それは、リーガルのことだろう」
「リーガル様より気にされていないと思います」
「あれはともかく、私もリーガル以下とは、それはないだろう。アリシア」
 二人が共犯者のように顔を見合わせて笑った。とたんに、強い日差しを遮る黒い影が二人の間に落ちた。
「ずいぶん楽しそうに話しているね」
 軍師はたちどろこに席から立つと、膝をついて礼をとった。
「アリシア、お前は大事な体と聞いている。そのままでよい。ユアン、今日の宴は無礼講だ。そんな堅苦しくしないでよ」
 ぶらりと現れた皇帝はひどく機嫌の良さそうだった。真っ白な薄絹を重ねた服には、複雑に絡まりあいながら空へ昇ろうとする二匹の龍が金糸で縫い取られている。濃紺の帯には西方では多く栽培されている葡萄が同じく金糸で細かく浮かび上がっており、皇帝の金髪と見事に調和していた。
 皇帝は軍師の横に空いている席へと腰を下ろした。軍師も軽く礼をとると、大人しく隣へと座った。
「ユアン、お前がこんな大きな宴に顔を出すなんてひさしぶりだね。声をかけたかいがあった。西からあの駱駝と共に運ばれてきた酒がある。葡萄から作られたらしいが、なかなかおいしい。ユアンと一緒に楽しみたいと思って、こちらに持ってきた。リーガル、お前も私の後ろにつかずにアリシアの横に座ってくれ」
 皇帝の背後に従っていた大将軍もその言葉に軽く礼をとり、大事な新妻の側に座った。
「アリシア、親子水いらずのところを邪魔して悪いね。でも、そんなに楽しそうにユアンと話していると、リーガルがやきもきするよ」
「陛下、アリシアを会うのは久方ぶりでございますので、つい長くなりました。娘かわいさに、すぐさま陛下のお席に挨拶にも伺わず失礼いたしました」
「ユアン、他人行儀な物言いはやめてよ」
 ミトス皇帝の言葉に何かを感じ取ったのか、アリシアが不安そうな面持ちで軍師の方を見つめた。
「ミトス、悪かった。だが、ゼロスが主催の私的な集いとはいえ、遠国の賓客もいる宴だ。多少の気遣いは必要だろう。それより、早速、その葡萄の酒とやらを味あわせてくれ」
 軍師がいつもよりは滑らかに答えを返せば、皇帝もすぐに機嫌よく背後の侍従に酒を注ぐようにと命じた。軍師と大将軍が押し頂くように杯を持つと、真紅の血のようにも見える酒が並々と注がれた。皇帝は自分の杯を軽くあげると、乾杯の言葉をつぶやいた。
「西方の獲得を。西域討伐将軍の活躍を」
 見事に整った面をほころばせ、皇帝の赤い口元は薄く笑っているかのようであるが、その目は軍師をじっと見るだけだった。不自然なほど素早く軍師が杯を合わせた。
「帝国のさらなる隆盛に」


 指先で駱駝の置物をいじっていたユアンはふところに収めていた書状を取り出した。部屋の中には誰もいない。軍師は先日来何度も読み返している粗い古紙に記された手紙を軽く指で撫でた。
 こんなところもクラトスらしく、真新しい物でもなければ、都で作られた高価なものでもない。しかし、日頃はこのような文を書いたことがないであろう青年が想いの丈を伝えようと、変わった風土と慣れない日常生活を書いて寄越していた。戦術案ならすらすらと淀みなく書き上げる武官は、ほんの数行の景色に、何度も考え、考え書いていることが、墨の勢いで分かる。
 文の最後には、どうにか軍を掌握できた気がするとそこだけ濃い墨で書いてきた。何人かの信頼できると思う将校を入れたつもりだが、何分にも年齢が若いクラトスは序列のはっきりした大軍ではそう簡単に力を発揮できなかったのだろう。こう書いてきたからには、あの慎重な青年武官が最初の壁を乗り越えたに違いない。
 濡れないようにと丁寧に羊皮紙に包まれた書状は、開くと薄く小さな茜色の花が挟んであった。おそらくあの地に咲いたのであろう。
 クラトスはそういうところがある。風流なことなど一つも口にしないくせに、季節の花や女子供が喜びそうな美しい小物に目を留める。ユアンは偵察に草原へ出た先で、唐突に馬から下りて、部下達を驚かせる若い武官の姿を思い浮かべた。何も気づいていないようで、自然の変化には敏感だった。あの剣だこのできた指でこの花を摘んだとき、どんなことを思っていただろう。
 この花は彼への返礼に違いない。同じ色合いの紅の花で素早く返答してきてくれたことに安堵する。まだ、こういうことに気が廻せるほど余裕があるのは良い知らせだった。
「受け取ったよ」
と小さく西に向いて声を出した。とたんに、胸に下げている宝玉がふわりと温かくなった。まるで愛しい恋人の吐息が吹きかけられたかのように感じられた。
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