唐桃

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なごり雪

 秋に王都を出たクラトスの軍は順調に目的地へと着いた。冬の厳しい時期での移動だったにも係らず、二万の軍はほとんど乱れることなく草原の入り口である拠点の町へと終結した。それは春を迎えるにはやや早い、いまだ底冷えのする時期であった。
 身を切るほど冷たい風の中、兵達の手前、真っ直ぐと前を見ていたクラトスは、木も岩もそれこそ何一つ遮るものがない緩やかな丘陵の先に町影を見た。周辺に何もないとは聞いていたが、ここまでとはと、たどり着く前からため息が漏れた。
 近づくと、季節が季節だからか、周囲と同じ土色の町が立ち込める埃の中にはっきりと浮かび上がってきた。土レンガで造られた家並、同じレンガで固められた土塁とその上の竹柵、唯一彩があるのは、この町の中央に聳える寺院の屋根とその下にたなびく祈りの旗だけだった。
 しかし、生気がないようと勝手に思い込んでいた町は、目を凝らして様子を伺えば、門のあたりは人の出入りが意外と多い。門の背後にたっている見張りの塔には数人の兵がきちんと四方を監視していることが分かった。
 中に入れば、昨年から、皇帝からの命ということでで急速に整備された町は、クラトスの軍が入る前から帝国から流入した数多くの人間と傭兵で賑わっていた。急ごしらえの宿屋や店が立ち並び、ロバや馬に引かれた荷馬車が行き交い、東からの物資が露店に並べられる。
 あらかじめ事前に調べておいたように、その町の西側の緩やかな丘陵が軍の陣地と定められ、すでに壕とその後ろの簡易の柵は作られていた。宿舎もある程度は完成しており、一部の兵達は背後の守りと合わせて、東側の帝国へと通じる街道脇に配置された。続々と入る兵や騎馬のざわめきが、厳しい寒さの中とはいえでも、町に活気を与える。旧市街と軍の間にも、さっそく急ごしらえの市が立ち並び、兵達への商売が始まっていた。
 人どひしめく市場の奥には、帝国がその町の支配にと建てた古びた城館がある。今は手狭となって打ち捨てられた形になっていた旧長官府を、クラトスは自らの宿舎とした。


 時折、雪混じりの強い風が吹き荒れている。厚い砂煉瓦で作られたこちらの館は、見た目よりも暖かかった。しかし、今日のような底冷えのする日は、真冬を過ぎたと言えども、火が必要である。王都とは違い、冬の厳しさに備えたこの地方の館では、部屋ごとに火をたく竃のような炉が作られていた。鎧戸を閉じて、昼とはいえ薄暗い部屋は、炉で燃えさかる炎に家具の陰が揺らめいた。
 机の上であげられてきた報告書を見ていたクラトスは、炉にかけられているこちら特有の熱い馬乳酒を椀に注いだ。外の廊下にはこの寒いのに、兵が警護のために立っている。職務とはいえども、もう少し短い時間で交代させた方がよいだろう。それに、この時期を過ぎても、春は天候が荒れると聞いている。装備に関しては、地元出身の慣れた者に、再度検討させなくてはならない。
 軍師に言われてはいたが、この地についた瞬間からすでに戦は始まっているということを実感した。王都では分からなかったことが多すぎる。あらかじめ準備していた物も使えなければ意味がない。
 平原の何もない状況を見ると、早速、弓と防ぐための軽い盾を増やさなくてはならなかった。機動力を考えれば、騎馬をもう少し手に入れることと、弓に手馴れた騎馬兵を増やさなくてはならない。
 しかも、厳しい冬にも旺盛に活動している商人達の噂に草原の向こうで疫病が流行っていると聞いた。
 すぐにこの地の薬師や医術に詳しい者を呼び出し、どのような病か、必要な薬などがあるのか、兵に何を気をつけさせるのか、即座に調べさせる。冬ということもあり、物資の往来は最小限しかない。疫病に効く薬は春にならないと、十分手に入らないことがわかった。
 クラトスは副官と相談し、当面は背後の守りと定めたこの町を優先することとした。兵達は体力があるから、しばらくは乗り切れるだろう。進撃するのは、雪が消え、強い春の嵐が去ってからのことだ。それまでは、戦で消耗する前に街中で流行らせないようにと、町の太守を訪ね、協力を要請した。
 昼もなお薄暗い部屋では仕事も進まないなと、馬乳酒をすすりながら、見るともなく、格子の隙間から外を伺う。さきほどから降り出した雪はさほどの量ではないが、気温が下がってきたのか、周りを白く覆っていた。その白さに、愛しい人の優美な手を思い出した。
 まだ戦も始まっていないのに、こんなに王都を、いや、あの方を恋しく思い出していては、彼についてきている兵に申し訳ないだろう。クラトスは手にしていた粗末な椀を机におき、再度、報告書を見始めた。
 さきほど、都から早馬が着いたとの知らせで、覚え書きをとらせようとしていた下士官と王都警備隊からつれてきた副官は席を立っている。時間がかかっているが、何か通常連絡以外のものがきたのだろうか。クラトスは前にある扉に目をやり、気配を待ちながら、ここでは貴重な裏紙に懸案事項を書き抜き始めた。
 扉の外から、副官が入室を求めてきた。答えれば、かなり大きな木箱を抱えた書記と一緒に入ってきた。
「定期便と一緒に、陛下より特別のご連絡があるとのことです」
 都からの連絡は、軍が移動している間にも早馬でいくつか届いていたが、陣を構えてからすぐに皇帝陛下からの書状が届くとは思っていなかった。副官が持ってきた箱から手際よく送られてきた書状を彼の執務机の上に並べていく。
 大方はリーガル大将軍からの今後の指示であった。高価な皮製の小箱に封印されているのは、皇帝陛下かあるいはその命を受けた宰相の文だろう。そのとき、副官が書状を並べると同時にあの何とも言えない心地よい香が立ち上った。あの方からも何か送ってきてくださったのだ。
 クラトスは副官の様子を見た。副官は恭しく小箱を彼の前にと運んできた。
「陛下からの書状は私一人で見よう。すまないが、少し席をはずしてくれ」
 書記役の下士官と副官はその言葉に頭を下げると、外に出て行った。
「隣のお部屋にてお待ちいたします」
 生真面目に深い礼をして部屋をさる副官の姿に罪悪感が湧き上がる。しかし、待ち望んでいたものをどうしても先に見たくて、我慢できなかった。目の前の箱はそのままに、脇の卓に並べられた書状の前へと歩く。
 軍師からの文は丁寧に小さく折りたたまれていた。クラトスは部下達が出て行ったことを再度確かめ、一息吸うとその薄い文へと手を伸ばした。手に取ると、また、軍師の香がほんのかすかに漂った。懐かしさに目が霞んだ。
 震える手で文を開くと、小さな字で几帳面に最近の王都の様子や、クラトスが出立した後に挙げられたアリシアとリーガル大将軍の式の様子が綴られていた。
「リーガルがアリシアの父親として年下の私に頭を下げたのは気持ち良かったが、やはり、アリシアはそのまま連れ戻したかった」
 その一文に軍師の気性が感じられて、クラトスはふっと微笑んだ。もちろん、リーガルは儀式として頭を下げたのでもなければ、高位の方だから礼を尽くしたわけでもない。愛する人を今まで大切にしてくれたことに対する感謝をしたのだ。きっと、ユアン様はひどく照れていらっしゃったことだろう。その場で、つんと澄ました顔で、しかし、目の奥に寂しさを湛えて座っていらしゃったに違いない。おそらく、後宮に戻られて、ようやく、淋しそうにされていただろう。胸のうちに大事な方が少し俯き加減に机に肘をついている姿が浮かんだ。
「おかげ、この冬の長春宮は広い」
 まるで気まぐれのように、少しだけ空白をおいてつけたされた最後の文だけが、字が小さく、いつもより字が乱れているようにも見えた。皇帝陛下からの指示などどうでもよい。頂いた命など投げ捨てて、クラトスは今すぐにも王都に戻りたかった。胸に手を当てれば、いただいたときから肌身離さず下げている石がじんわりと暖かく感じられた。
 これだけは、懐にしまおうと文を持ち上げた。とたんに、文の間からはらりと小さな葉が落ちた。薄く赤い紅葉だった。おそらく、あの中庭の葉だろう。軍師の艶かしく赤い唇が触れたような色だった。この文に挟んで下さるときに、きっと接吻を与えてくださった。確信のように、彼の心の中にその情景が浮かんだ。白くほっそりとした指先がそっと葉の柄をつまみ、あのしっとりとした唇が葉の先に触れるている。クラトスは手の平の上で震えている紅葉に、羽のように軽い口付けをした。

 
 格子窓の外に、激しく風が吹きつけ、ガタガタと窓枠を揺らした。吹き込む隙間風に炉の炎がふらりと揺らぎ、ここにいることが夢であるかのように、部屋にある全ての物の影もぐらりと踊った。冷たい風は、文を持つ彼の指先を寂しさに耐えている心の中と同じくらい凍えさせた。
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