唐桃

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日暮れ

 かさりと音をたてて落ちるカエデの葉が丁寧に掃き清められた中庭に彩りを添えた。風がそよぐ度に数枚の葉が散り、手馴れた職人が描く塗り盆の絵のように按配よく重なる。
 人影も少ない回廊には、誰に愛でられるでもなく見事な装飾の灯篭が風にゆっくりと揺れ、壁には伝説の仙人や天女が過ごすと言われる桃源郷と思しき景色が遥か以前の匠によって描かれている。朱塗りの装飾された柱の奥に見える天女はマーテルに似ていると皆から言われた。永遠の生命をもった幸せの地。そうあれと願って描かれた絵と後宮に今ある現実の違いの皮肉さにユアンはため息を落とした。
 マーテルを失った後同じ館にいることもつらく、ユアンは後宮の奥に位置するこじんまりとした長春宮へ移っていた。形よく整えられたカエデと長い葉の松しかない中庭を挟んで、二つの建物が向かい合っている。ユアンは中庭の南に位置する四室続きの屋を執務室兼私室として使っていた。
 侍女が日が落ちる前にと、灯火をつけるために長い蝋燭を持って静かに回廊を通り過ぎる。手元の字が見えにくくなってきたことに気づいたユアンは書斎の窓の側に寄るために立ち上がった。乾いた喉をうるおそうと机の上の椀を取れば、それはすでに冷え切っていた。黒の漆塗りの卓は丁寧に磨かれ、青磁の椀が白く映っている。以前なら、茶はいつでも温かかった。そこに一緒に柔らかな春先の小枝のように映っていた髪を思い、椀の影を指でなぞった。
「マーテル」
 人前では決して口に出さない想いをこめて懐かしい名前を小声で呼んでみる。一人しかいない部屋にその音は吸い込まれていった。ゆっくりと首をふり、気を取り直すように、卓の書類を揃えた。
 何気なく窓外の赤い葉の散らばる様が目に入ると、書庫の前でじっと彼を見上げた赤毛の青年の顔が浮かんだ。緊張した声色や、彼の名前を聞いたときに思わず見せた驚き、魂を奪われたように彼を見つめていた目、どれもが、王宮の生活に慣れていない青年の素朴な性格を感じさせた。
 あちらも驚いたようだが、私も驚いた。クラトスという名前で上げられてくる報告書は、どれも簡潔で無駄のない筆致で王都の現状と解析がしたためてあった。王都の表面的な賑やかさにごまかされず、冷静に分析された内容に、あのような若い武官が書いていたとは、まるで思わなかった。なかなか、使えそうな男だ。
 机に戻り、火が必要となるまえに、署名だけすまそうと筆を取ったところで、扉がかたりと開いた。
「執務中は入るなと言っているであろう。もう少しで終わる。終わったら声をかけるから、待て」
 中室に控えているいつもの侍女だと思い、振り向かずに答えたが、扉を開けた主はそのまま部屋へと入ってきた。滅多に手に入らない貴重な香が漂い、誰が入ってきたかは見ずとも見当がついた。
 ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げる。
「忙しそうだね。ユアン」
「陛下、わざわざ、お越しいただきありがとうございます。ご用がございましたら、永楽宮までお伺いいたしましたのに」
 皇帝は言葉は返さず、慣れたように、真っ直ぐ奥の彼の私室へと入っていく。ユアンは黙ってその後に従った。線の細い皇帝の後姿はさきほど彼の胸を締め付けた亡き人をまた思い出させた。
 皇帝がお気に入りの窓際の長椅子に座って、横をさししめせば、ユアンは少し考え、一人分の席を空けて腰を下ろした。
「ねえ、ユアン」
「なんですか。陛下」
 彼の答えに、皇帝の気が強く反応した。
 この国の史書が正しければ、第二十一代目となるミトス・ユグドラシルは生れ落ちたときから、特別な者だった。彼が生まれた日、この二百年間一度も輝かなかった宝物庫の水晶球が光を放った。それは、帝国の占い師にも吉兆を定められない不可思議な現象であった。
 正妃を母にしていない皇帝は彼だけだった。好戦的だった父皇は国を広げることに忙しく、他のことは省みなかった。育った子供は姉と彼だけだったのだから、しかるべき手を打っていれば何も問題なかったはずだ。だが、ミトスが正式に皇子として宣下される前に、新興の豪族に出先で気弱い妾妃と父は暗殺された。
 わずか十四歳で皇帝の座につこうとしたとき、まずはその血筋が問題となった。からくも、彼が皇帝の名を得ることが可能となったのは、彼が先祖がえりを果たしたからか、気を操るとてつもない力を持っていたからに他ならない。
 父皇が亡くなったという早馬が入ったとき、彼が機敏に宝物庫に収めてあった光の剣を手にしなかったら、帝国自体が崩れ去っていただろう。十代以上にわたって、単なる名目になっていた剣が彼の手におさめられた瞬間に、臣下の者は誰が皇帝であるかを知った。それは、王宮全体を津波のように襲い、誰一人疑問も持たずにミトスの元に跪いた。
 ミトスが剣を振るえば、将兵は皇帝の気に同調して奮い立ち、王都を手にいれるべく上ってきた新興豪族はたちまち逆賊として敗走した。背後には、軍師が影のようにつき従っていた。
 こうして、瓦解しかけていた帝国はミトスの元、再び、名実ともに強大な国として蘇った。その治世はすでに十年におよんでいた。
 軍師は、皇帝が放つ強い気に目を細めた。皇帝は他の者の前では抑えている感情を軍師の前ではいつも開け放っていた。それは、マーテルを失った後のユアンをひどく困惑させた。
「ミトスと呼んでくれといつも言っているだろう」
 皇帝はかすかに甘えを含んだ声で軍師に囁いた。軍師はあえて逆らわず、しかし、淡々と答えた。
「ミトス、何かご用ですか」
「ユアン、最近後宮からよく外に出ているようだね」
「ミトス、それは私の自由でしょう。いつまでも後宮に引きこもっているつもりはありません」
「それは危険だ。姉さまに手を下した輩はまだのうのうと王宮にいるはずだ。つぎに狙われるのはお前だ」
「だからこそ、篭っていられません。私が出れば、奴も次の的を狙うために動き出すでしょう」
「駄目だ。駄目だ。姉さまに続いて、お前まで失うわけにはいかない」
 皇帝は傍らに座る寵臣の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。皇帝の細腕は剣を振るうだけあって、見た目よりずっと力強い。ユアンは鋼のいましめのように腰を掴む手を引き剥がそうとした。
「陛下、離してください」
「私を陛下と呼ぶな。ユアン、最近、何を考えている。私を見て」
 ミトスの指がユアンの形よい顎をとらえ、背に回った手は絹のように艶々と長く青い髪を絡めとるとユアンの頭を固定した。炯々とミトスの翡翠色の目がユアンをねめまわす。ユアンは皇帝の目線を避けるようにあらぬ方を見やった。
「ミトス、やめてくれ。私はお前の亡き姉の夫だ」
 ユアンが吐き出すように叫んだ。お気に入りの軍師から取り繕った言葉が消えたことに気づいた皇帝は満足そうな笑みを一瞬だけ浮かべ、だが、その背に回す腕に力をこめて、寵臣を自らの体に寄せた。
「ユアン、何のためにお前をあそこから救い出してやったと思っている。思い上がるな」
「救い出してくれたつもりか。無理やり連れ出したのだろう。私は一度とてあそこから出たいと……」
「お前が望んだのだ」
 ユアンの言葉が終わるのをまたず、ミトスは抗議を続ける口をいきなり奪った。乱暴な口付けは軍師が抵抗を止めるまで続き、ついに、ユアンが苦しげに息を吐き出すと、皇帝はぐったりとした軍師を放した。
 荒く息をつき、それでもわずかに体を避けようとする軍師の肩へ頭をもたせかけ、軍師の耳元に皇帝は囁いた。
「ユアン、姉さまとはどんなことをしていたの。お前の気が明滅していたよ」
「覗いていたのか。品のないことをする」
「亡くなった姉さまに免じて、その言葉遣いは許してやる。お前が私に見せ付けていたんだ。姉さまは愛せても、私は愛せないか」
「ミトス、わかっているだろう。我々の気が同調することと愛することは全く違うんだ。勘違いするな。確かにお前の呼び声に私は答えた。だが、それはあくまでも気の波長が似ていたからだ。互いに宿る精神はまた別物だ」
 ユアンは、体を寄せて己の顔をなでるミトスの手を引き剥がし、首を振った。ミトスは自分の手をつかむ軍師の細い指にわざと口付けを与え、執拗に囁いた。
「気はまた精神の現れでもある。そう言ったのはお前だ」
 軍師はちらりと困惑したような表情を見せ、しかし、一瞬のうちに仮面をかぶったように無表情になった。その表情は、ミトスにいつもわずかな期待と激しい焦燥感をもたらした。
「わざと意味を履き違えるな」
 軍師はミトスが予想していた以上に平静に答えた。帝国の全てを統べる皇帝は、唯一ままならない者を見つめ、ふかぶかとため息をついた。
「わかったよ。だが、忘れるな。お前が愛した者が姉さまだったから許してやったんだよ。お前が私の側を離れることは許さない」
 ミトスはユアンに掴まれたままだった手をふりほどくと、立ち上がった。
「誰にも関心を持たなかったはずのお前がどうして後宮を出る。ここにいれば、私の結界の中だ。誰にも簡単に手出しはさせない」
「誰にも関心はない。だが、私とて、たまには外の空気も吸いたい」
「どこで吸っても同じだ」
 皇帝はそのまま振り向かずに部屋の外へと出て行った。
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