唐桃

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前夜(二)

 庭に出ようとユアンに誘われて、まだ、明るく、回廊を行きかう人も多いとクラトスは躊躇った。ユアンはそんな恋人の気持ちなど斟酌せず、強引に手を引いて、中庭に連れ出した。
 部屋の中で散々こちらの気持ちを高揚させておいて、何を恥ずかしがるのだろう。
「せっかく、日を浴びてきれいなお前の顔を見ようと思っているのに、何を嫌がる。大体、恋人同士と思っていたのは、私だけなのか」
「ユアン様、もちろん、私もそう思っております。でも、ユアン様こそおきれいですが、私の顔をご覧になられても」
「全くお前は分かっていない。私が恋人の顔を見たいと言っているのだ。少しくらい嬉しそうにしろ。それに、いいではないか。アリシアは、リーガルとあのブライアン家の広い庭を一日かけて歩いたと言ってたぞ。花の季節に私も招かれたことあるが、あそこは中々風情があって良かった。確かにこの中庭は少々狭いが、二人で外を歩いてみたい」
「ですが、ユアン様。私達は、あの、なんと申しますか、リーガル様達のようには約束を交わしているわけではございませんので」
「私はお前と生涯の契りを結んだつもりだったが、違うのか」
「いえ、ですが、アリシア様とリーガル様とは少々事情が違いますので……」
「何が違うのだ。クラトス、私達も愛し合っているのだから、事情は同じだ」
「ユアン様、……」
「いい加減に黙れ。お前は堅苦しくていけない」
 困惑したように立ち止まってこちらを見る武官に苦笑した。それがクラトスの良いところだと分かっているはずなのに、生真面目な対応にたまに腹がたつ。今日を過ぎれば、いつ会えるのかわからないのだから、もっと遠慮せずに、素直に振舞って欲しかった。
 だが、それはないものねだりだろう。いつでも彼の立場を慮り、何も言わずに呼び出されるのを待っているのは、クラトスなのだ。
「すまない。言いすぎてしまった。お前は我慢してくれるのに、私が勝手ばかり言うな」
 腰に手を回して、側に引き寄せ、耳元で謝ると、クラトスは引かれるままで抵抗しなかった。それどころか、彼の考えを読んだかのように、恋人は日の光に赤がねに輝く瞳でこちらを見て、心擽るようなことを言った。
「いいえ、いいえ、私がいけないのです。ユアン様が大事にして下さるから、自分の立場も弁えずに振舞ってしまいそうで、それが怖いのです」
 態度にはそれとちらりとも見せず、大切な恋人はたまにポロリと本音をこぼす。引き寄せた体がわずかに熱くなっていた。
「これでしばらく会えなくなるのだ。お前の立場を弁えない振る舞いを見たい。と言っても、お前のことだから、無理だろう。聞き流してくれ。
だが、今だけは帝国の軍師でもなければ、将軍でもない。誓い合った者として互いにいるのだから、少しは甘えてくれると嬉しい」
 彼の言葉が終わらない内に、恋人はその逞しい腕を彼の首に回し、縋りついてきた。
「でしたら、ずっと私を離さないで下さい。ずっと愛してください。私だけを見ていてください」
 突然の恋人の変身にあっけにとられ、軍師は恋人に抱きしめられるまま、突っ立っていた。
 クラトスは彼の首に腕を廻したまま、がむしゃらに彼の唇を求めてきた。その乱暴な仕草は、何をされているかようやっと理解したユアンがクラトスの背中を優しく撫でてやる内に穏やかなものへと変わった。やがて、勝手に仕掛けてきたくせに、クラトスは悪いことでもしたかのようにおずおずと唇を離した。後は荒く息をして呆然としている。
 ユアンは大切な恋人の額に己のそれを押し付け、広い背中を赤子でも癒すように軽くたたいてやる。
「もちろんだ。お前と出会ってから、お前だけ見ている。これからもだ」
 ふわりとそよぐ風に、今しがたの行為で乱れた赤茶けた前髪が踊り、奥にきらめく瞳は彼の言葉を信じると告げていた。庭をそぞろ歩くつもりだったのいうのに、このまま、押し倒してしまいそうだ。
 軽くその形のよいすっきりとした顎をとらえ、今度は彼から唇を近づける。クラトスの思いのほか長い睫がゆっくりと閉じ、柔らかい影を頬に落とす。わずかに赤らめた頬に恥ずかしげにかすかに開かれた口元。この表情の何と魅惑的なことか。
「お前と共に一日過ごすのが夢だったというと笑うか」
 彼の問いにクラトスは、かすかに首を横に振り、掠れた声で答えた。
「私も同じです。私の願いもユアン様といつも同じです」
 たまらず、柔らかく濡れて光る唇についばむように軽い口付けを何度も与える。彼の背に回された腕の力はますます強くなり、クラトスは先をねだるように体を押し付けてきた。
 彼から与えるいつにもまして長い口付けの間、恋人の腕は確かめるように彼の背を何度も掴みなおした。彼も撫でていた片手で恋人の背を抱え、体をひきつけながら、空いた手で脇から腰を優しく撫でていた。
 どれだけ時がたったか、背後の楓の葉が風に落ち、かさりと葉の重なる音がやけに大きく聞こえた。
 そろそろと繋がっていた口唇を離すと、クラトスは軽くため息を吐きながら、彼の肩に頭を当てた。向かい合って、そのかすかに媚を含んだ表情を見ていたい。
「お前の顔を見せてくれ」
「駄目です。ユアン様の顔を拝見したら、もう立っていられそうもありません」
 耳元まで赤く染めて、下を向いたままの恋人の背中をまた撫でる。首筋にかかる少し乱れた息遣いに彼の動悸も速くなる。背筋から首筋へとゆっくりとたどると、クラトスが身を震わせた。
「では、あちらの置石に座ろう。覚えているか。初めてお前と共に花を見たときの夜。あの千檀宮近くの中庭で会ったときは、ずいぶんと離れて座られ、私のことを厭うているのかと思った。遠慮されていると分かっても淋しかったぞ。お前はこちらを全く見なかったな」
 見事に色づいた形のよい楓の前に座る。松の緑を背景に秋の日差しに紅葉が照り映え、地に落ちた影が風に揺らいで文様を変える。
 ユアンは恋人の腰にしっかりと腕を回し、抱き寄せた。とうに遠慮の消えたクラトスは軍師の肩に顎をのせ、耳元にその熱い息とともに鼓膜を震わす低い声で答えた。
「あのときはご一緒させていただいただけで感激して、言葉も出ませんでした。気づかれなかったのですか。実はこっそりユアン様のお顔を拝見していました。でも、ユアン様を真っ直ぐに拝見したら、無礼と言われても目が離せないと思ったので、遠慮したのです。それに、覚えていらっしゃるでしょうか。ユアン様が手ずから下さった花はずっと大切にとっております」
「クラトス、お前と一緒に見た花の美しさは忘れてはいないよ。手元に持っていてくれたとは知らなかった。その場限りのことと思っていたからな。だが、花を与えたのは、お前だけだ。親しく声も交わしたことのない者にあのように振舞ったのは、お前が最初で最後だ」
「ユアン様」
 ユアンの言葉にクラトスが弾んだ声で名前を呼んだ。
「あの後、調査を止めるようにおっしゃられて、お声をかけていただけなくなったときは、ユアン様の代わりに頂いた花を見ておりました。未練がましく持っていてはいけないと何度も考えました。でも、捨てられませんでした。ユアン様が下さったものを手放すことはできません」
「そうか。私はいつもお前にすまないことばかりしているね。お前が花を捨てずにいてくれて嬉しい。お前の心が私に留まってくれて、神に感謝するよ」
「それは私です。ユアン様にお声をかけていただいたことがどれほど幸せなことか。今でも夢かと思うときがございます」
 クラトスがもう忘れてしまっているだろうと思っていた些細な二人のできごとを、次から次へと語る。ユアンはいつもは口の重い青年が必死になって告げようとするその想いを優しく肩を抱いて聞きほれた。
 柔らかな秋の日差しが、無意識に軍師の髪を弄ぶ青年の手に降り注ぎ、ときたまふわりと寄せる涼しい風が一面にユアンの香を散らした。紅葉の枝が落とす影が長く伸び、ときの経過を教えてくれた。
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