唐桃 

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前夜(三)

 見事に準備された夕食は、アリシアが一人で世話をしてくれた。ユアンはどうやらクラトスに気を使ってくれたらしく、他の召使の影は見えなかった。同席を誘ったアリシアからは、初めて出会ったときに親切にしてくださった御礼をさせてくださいと丁重に断られた。
 クラトスの出陣を祝うためだろうか、ゆっくりと運ばれてくる食事はいつもの宴席よりも豪華だった。色とりどりの野菜や調理された肉を目出度い亀甲に形どり、美しくならべられた前菜はそれだけで芸術品のようだった。
 向い合わせに置かれた席で杯に互いに酒を注ぎあうと、軍師は持っている杯を掲げ、クラトスの出立の無事を祈ってくれた。クラトスもまた軽く杯を上げ、それに答えた。一口含んだ強い酒は舌をわずかに痺れさせながら、喉をするりと落ちた。前にいる軍師と目が合うと、もう酔いが回ったかのように呼吸が速くなった。
 次から次へと運ばれてくる豪奢な皿は、長春宮の調理人が心をこめて作ってくれたことがわかるものばかりだった。しかし、おいしいはずの料理はさして喉を通らず、クラトスはただ愛しい軍師に見惚れている間に終わった。初めての差し向かいの食事は、ユアンが己を見つめる眼差しが熱く、クラトスは味もわからなかった。


「クラトス、あまり食べなかったが、大丈夫か」
 赤い顔をしてぼんやりしているクラトスを真横に移ってきたユアンが抱き寄せる。
「ご心配いただいてすみません。あなた様から昼に口付けされてから、夢の中にいるようです。もう、さきほどの酒で酔ってしまったかもしれません」
「お前は酒に弱かったからね。ちょっと酔ったお前は本当にかわいい。こんなに楽しい時間がすごせるのなら、もっと前から二人で食事をするのだったな。お前と一緒だと、何を食べてもおいしく感じられる。これから、一人の食事はいっそ味気なくなるかもしれないな。だが、愚痴を言ってもしょうがない。ほら、こちらに体を寄せてごらん」
「では、お許しください」
 そう言いながら、クラトスは引き寄せる腕にしたがって、ユアンの胸に体を寄せた。酔いの勢いもあって、いつにもまして安心したように身を委ねるクラトスの姿に、ユアンはこの大切な恋人に今までは口にできなかった約束を与えようと心を決めた。
 期待させてはいけないから、確信が持てるまではと今まで言うつもりはなかった。だが、もう心は決まった。クラトスが遠くに行っている間なら、ミトスの相手は己一人のこととなる。ミトスがどう反応するかはわからなかったが、ここまで来れば自らが動くだけだ。
「なあ、クラトス。お前が西域から戻ってきたら、私は後宮を出るつもりだ」
 ああ、酔っているとまるで夢のような話が聞けるものだ、いや、夢の中にいるのだとユアンの胸にクラトスは顔を押し付けた。
「私の館に来ていただけますか。私と一緒に暮らしていただけますか」
 これは夢なのだから、その中なら何を言ってもいいだろう。死地に赴く前に一回くらいは思ったことを口に出しても、もう笑われないはずだ。
 ユアンがクラトスの頭を強く抱きしめた。
「そうか。そう言ってくれると心強い。私は後宮を出たことがないから、お前に迎え入れてもらわないと、どこぞで野垂れ死にするかもしれない」
「でも、私の館ではユアン様のお気に召すかどうか。まともな調度品もございませんし、召使も皆田舎出の気のきかない者ばかりですから」
「お前と二人でいられるなら、どこも後宮よりはよい場所だ」
 目の前がぐらぐらと回った。本気でおっしゃっているのだろうか。ユアンはそこでクラトスの肩に廻した腕に力を込めた。
「お前はもう気づいているであろう。私は後宮の外に係累を持たない。表向き、陛下と縁続きということになっているが、本当のことは分からない。私はある日、気づいたらここにいたのだ。陛下にどこからか呼び出された。だから、何者なのか自分でも知らない」
 クラトスは酔いが醒めることが分かった。この方は今彼が聞きたくて、しかし、聞いてはならないと思っていたことを教えてくださっている。
「陛下がユアンと名前を呼んで下さった。それまでは、誰とは判然としないが、ずっと二人きりだったというぼんやりした記憶があるだけだ。幼いときの記憶は、それこそ親や兄弟の記憶もない。典医にたずねると、ごく稀に何かの衝撃で今までの記憶を失うことがあると言われた。何者なのか自分で分からないことが恐ろしかった。自分の過去が何か影響を与えるのではないかと思うと、お前に真正面から向き合うことができなかった。不安に思わせていただろう。すまなかった」
 この方こそ、ずっと不安でずっとお寂しかったに違いない。それなのに、彼のことを心配し、今も気遣っていてくださる。クラトスは体を起こし、一目見たときからその虜になっている軍師を抱きしめた。
「ユアン様、もう結構です。どうぞ、おつらいでしょうから、それ以上は
おっしゃらないで下さい。私こそ、申し訳ありません。ユアン様を信じなくてはいけないのに、私がずっと不安に思っていたことを気づいていらしたのですね」
「クラトス、そうではない。己を語ることはつらくはない。逆にお前を不安にさせてしまったことの方が私にとってはにつらい。だから、今、お前に知ってほしい。
 誰なのか分からないから、自分が信じられなかった。お前のことを愛してよいのかどうか、わからなかった。事情を知っているのは、マーテルと陛下だけだった。だから、マーテルを亡くした後、再び、このような気持ちを持てるとは、他人を心を交わすことができるとは思わなかった。
 だけど、気づいたらお前のことを愛していた。お前も私を愛してくれた。自分の想いに気づいてからも、それを正直に伝えることがなかなか出来なかった。伝えた後も、私の都合でお前を振り回してばかりだ。お前の素直な気持ちにずっと甘えていたかもしれない。
 このような日にこんな勝手なことを言うのは卑怯かもしれない。
 クラトス、愛している。だから、私のために必ず戻ってこい」
「必ず、必ず、お側に戻って参ります。ですから、ユアン様も私のことを決してお忘れにならないで下さい」
 クラトスはさらに言葉を続けようとして、しかし口から何も出てこなかった。自分のその態度をもどかしく重いながらも、彼は大切な方の手をとり、神聖な誓いをするかのように恭しく口付けをおくる。ユアンも触れられた手でクラトスの手を再度とり、恋人と同じくゆっくりと穏やかな誓いの口付けをその手に落とした。


 窓の外でしきりと鳴く虫の音が二人を押し包み、晴れ上がった空には黄金にも白銀にも輝く月がくっきりと浮かび上がる。透明な静けさを湛える月の前をどこに帰って行くのか、雁が一群、形よく横切り、その後には雲ひとつ見えない夜空が広がっていた。
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