唐桃

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前夜(一)

 昼日中から、長春宮のユアンの私室へ呼ばれたのは初めてだった。部屋には晩秋の透明な日の光が満ちて、螺鈿の棚や磨き上げられた漆塗りの机が輝いていた。中庭の楓の葉も色づき、窓から見える青い空にくっきりと映えていた。開け放した窓からは爽やかな風が入り込み、クラトスの前の卓に置かれた花器の花を揺らした。
 軍師は前の用がまだ終わらないとのことで、彼は一人この部屋にいる。いつもなら、四方山話につきあってくれる侍従や侍女達は、今日は茶の道具を紫檀の小卓の上に置くと、彼に静かに頭を下げて出て行った。
 見慣れた軍師の部屋は、落ち着いた色合いでまとめられている。だが、さすがに皇帝のお身内だ。この明るい中で見れば、何気なく置かれている水受けの皿は西方から来る青いガラス細工だった。上に浮かべられているひんやりと冷たい白色の季節はずれの睡蓮が涼しげだった。奥の黒漆の小さい箪笥の上には、淡緑色の翡翠をくりぬいて山の風景を写しとった見事な香炉が一つ飾ってある。微妙な色の変化に合わせて彫られたそれは、いかにも軍師の好みそうな繊細な造詣のものだった。
 夜には見られないユアンの部屋の雰囲気がクラトスを落ち着かない気分にした。いつもなら、落とされた小さな灯りの中、軍師の顔しか目に入らない。しかし、今、ここにいるのは彼一人だ。こうやって、部屋を見渡すと、大切な方のことをまだまだ分かっていないことを思い知らされた。
 部屋の隅に無造作に重ねられた数多くの巻物は、仕事が終わった後でさえ、軍師が調べ物をしている証拠だ。脇には書き損じだろうか、束ねられた紙のあちらこちらに朱で細かく字が入っている。彼への指示もいつも丁寧で美しい字で書かれていたが、反古の紙の字もとても整然としたためられている。
 どんなお顔で考え事をされているのだろう。たまには、彼のように筆を持つ仕事に厭きて部屋の中を歩き回ったりされるのだろうか。仕事に入られれば、熱中されると召使達から聞いていたから、じっと、書類をご覧になっていらっしゃるのだろうか。こんな明るい日の下では、おそらく軍師の美しい髪が黒漆の卓の上に見事に映っているだろう。
 クラトスはとりとめもなく、日頃接しているときとは異なる軍師の姿を思い浮かべた。 


 半年前に、西域討伐の大任を与えられた。率いる軍は二万。準備に追われて、この数ヶ月は軍師との逢瀬の時間もままならなかった。
 蛮族の強大な騎馬隊に帝国に恭順しない様々な民族が混ざり、荒れる西域の平定は、彼のような若い将軍には荷が重かった。一度は帝国に下ったくせに反旗を翻した胡や朔の国々と和平の連絡を取れるほど、人脈もできていない。先代から仕えている老将軍達に新参者の彼はさほど覚えも良くない。先代の皇帝と共に西域途中まで足を伸ばした将軍のところへ日参し、ようやく親しく話をしてくれるようになったのも、つい最近になってからだ。
 与えられた師団も急ごしらえの混成部隊だ。、彼自身が育てあげた王都警備隊はそのまま彼の部隊の背後の守りに必要なため、極わずかな信頼できる部下だけしか連れてこられなかった。結局、各軍から選ばれた将官はほとんどが彼より年上だ。実戦経験も浅く、これといった大きな戦いを経験していない彼にどこまでついきてくれるのか、自信はなかった。
 皇帝から進軍にあたり篤い期待の言葉をいただいていたが、リーガル大将軍や親しくしている将軍達から指示や忠告を受ける度に己の力不足が気になった。軍師はいつでも励ましてくれてはいたが、王宮の雰囲気には疎いクラトスでも、ほとんどの者がどう考えているかくらいは分かった。自分の力では西域攻めの露払いとしての役割しか期待されていない。
 準備をするため、過去の戦果を調べるほど、気分は重くなった。おそらく、一旦負け始めれば、戻ってこられないだろう。王都からは遠く、形勢が不利と分かったからといって、何の援助も期待できない。勢いよく攻め入っても、人が暮らせるわずかな土地の細く長い兵站を一度切られれば、それは敗北を意味する。一方、地の利のある相手側は騎馬を用いた機動力を駆使し、従来の平原での戦法は通じない。現状の戦力では過酷な場所だ。
 その難しさをユアンに訴えると、軍師も眉を顰めてじっとクラトスの話に耳を傾けてくれた。クラトスが今までの戦記についてまとめれば、どこから探し出してくれたのか、古い記録や彼では知りえない西方の町の史書を取り寄せてくれた。たまには、ゼロス宰相補佐やリーガル大将軍まで呼び出して、クラトスが立てた戦略の是非を検討してくれた。最後の数ヶ月は逢瀬とは言うよりも、夜更けまでずっと戦術論を交わしていた。
 数多い兵達の兵糧、馬や武器の準備など、背後のことでも気を使わねばならないことは多かった。クラトスが準備不足にようやく分かって、慌てて、王都警備隊を訪ねれば、すでに軍師が動いた後であった。すでに与えられた予算では足りなくなったときも、言い出そうとする前にゼロスの方から呼び出しがかかった。おそらく、軍師が彼の背後を固めようと、配慮してくださっていたことに気づいた。



 先週全ての準備を終えたとの報告を上げると、皇帝陛下直々のお見送りがあると伝えられた。明日がその日だ。だから、本当ならユアンの呼び出しは、彼の執務室で受けるべきだったかもしれない。だが、長春宮はクラトスにとっては大切な思い出の場所だ。今日会わなければ、もう二度と会えないかもしれない。そう思うとどうしても長春宮を訪れたかった。先々週、ユアンに抱かれたときに別れは告げたつもりだったが、やはり会えるなら、それがただの用件を伝えられるだけで、一言交わすだけでいいから、会いたかった。
 さきほど通り抜けてきた執務室のある建物には、軍師に用があるのだろう、多くの文官が詰めていた。クラトスがその前を通りかかれば、皆、一様に頭を下げた。おそらく、執務室を通り抜けた彼の姿はほとんどの者が気づいたに違いない。それに、こちらの建物も、掃除や片付け、庭の手入れなど日常の雑事があるのだろう、外の回廊を侍従や女官が行き交っている。ユアン様の私室に、用を承るだけとは言えども、西域征討将軍を頂いている彼が入るのはまずいのかもしれない。
 クラトスはなかなか来ない軍師を待ちながら、また、落ち着かない気分で辺りを見回した。何のご用なのだろう。明日の出立にあたって、何か見落としていたことがあっただろうか。赴く先の長官への公式の文はすでに皇帝陛下の印璽もいただいて、準備されている。一昨日、リーガル大将軍に皇帝陛下のご臨席も賜って、出立前の最後の状況説明も終わった。軍師も満足そうにクラトスに向かって頷いてくれていた。
 ちらりと、座っている先にある見事な草花の装飾が掘り出された扉を眺めた。初めて手を取られて連れて行かれたときのことは、決して忘れない。その前にこの場所で夢のような誓いの言葉を下さった。あれから、何度、互いにそれを確かめ合ったのだろうか。
 奥のあの方の寝台で優しい腕に包まれ、温かい胸に抱かれたかった。夜までいたい。もう一度、この想いを伝えたい。忘れるなと縋りたい。考えることは、明日からの行軍のことでも、厳しいであろう蛮族との戦さのことでもなく、愛して止まないユアンとの別れだった。


「待たせてしまってすまなかったね。今日に限って、何かと用が入ってしまった。おや、何を考えている」
 気づくと、急いで部屋に戻ってきたらしいユアンが軽く息を弾ませ、傍らに立ち、彼の顔を覗き込んできた。いきなり現れた軍師の姿にまぶしそうに目を瞬かせると、軍師はいつものように優しく微笑み、クラトスの顎に手をあてた。
「そんなに悩ましい顔をしてどうした。西域の情勢が心配か。それとも、兵站のことか。ここにまで来て、そんな顔をさせたくない。話してごらん」
 優しく、顎から頬へと撫でる手に顔を摺り寄せ、その後、美しい手を押し頂いて口付けをした。剣を振るうにはあまりに繊細で優雅な軍師の指の感触が好きだ。この指先に触れられるだけで、いつも彼の心臓は躍り上がる。彼の頬をたどるひんやりとした感触は彼の思考を奪っていく。離したくない。
「ご心配、すみません。考えていましたのは、ユアン様のことです」
 クラトスの真横に腰をおろしたユアンがふんわりと笑った。
「嬉しいことを言ってくれる。明日は出立という日に呼び出して悪かったな」
「とんでもありません。私もお会いしたかった」
 握ったままの手を顔に押し当て、クラトスは目をつぶった。このまま、軍師の顔を見ていては、見境もなく甘えてしまいそうだった。ご用事を伺う前からみっともない姿をお見せしてはならない。しかし、クラトスは大事な方の手を放すことはできず、再度握り締めた。
「明るい内から誘うな」
「でも、……」
「こちらを見てごらん」
 時間がないのですから、愛してください。クラトスは言おうとした言葉を飲み込んだ。軍師の顔を見てしまったら、二度と手を離せないだろう。深く息を吐き、どうにか心を静めて、ゆっくりと己の手を引くと、軍師の前に膝をついて礼をとった。
「すみません。御用と伺っておりましたのに、つい、我を忘れてしまいました。ご用とは何でございましょうか」
「我を忘れたクラトスの方がいい。私の用事は簡単だ。そんなに他人行儀なことはせずに、こちらに座って」
 せっかく離した手はまた握りこまれた。ひっぱりあげられるまま、クラトスがユアンの横に座った。紅潮しているクラトスの頬へユアンが再び手を這わせた。
「明日の朝までここにいろ」
「それは、……」
 一度も言われたことのない言葉に戸惑う。
「なんだ。妾姫のようで嫌か」
 慌てて、頭を振る。おしゃっていることが理解できない。いいのだろうか。自分は構わない。妾姫になれるのなら、そうなりたいくらいだ。
「お前を私の部屋から見送りたい。だから、今日はずっといろ。お前の館の者にはすでに連絡を取って、準備はこちらでするよう伝えた。こちらで手配は整えてある」
 そういえば、館の者が今日でかけるときに、神妙にいってらしゃいませと深々とお辞儀をした。明日でもあるまいに、どうしたのかと思っていたが、そういうことだったのだ。
「ユアン様」
「だから、明るい内から誘うな。時間はたっぷりある」
 くすっと笑い声が耳元で聞こえ、まだ、明るく人が行き交っているというのに、軍師は混乱しているクラトスを自らの胸に抱き寄せた。
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