唐桃

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山空木

 クラトス・アウリオンが皇帝直々に西域征討将軍の名を拝命したのは、王都が初夏に入ろうとする前のことであった。軍師にさえ伝えられなかった誰もが驚愕する特急の昇進は、わずか数ヶ月の準備で西へと出立せよとの命令と共に伝えられた。
 クラトスは思いもかけない大任を皇帝陛下から直接申し付けられたことに深く感動していたため、命ぜられた仕事の難しさまではすぐには思い及ばなかった。ましてや、仕える部下達や侍従達は尊敬する主が高く評価されたことを単純に喜んでくれた。以前の上司のフォシテス将軍やボーダ准将、近衛師団へ移動した剣のよき相手のマグニス准将からも彼の働きを分かっているだけに、心からの昇進に対する祝いの言葉をもらった。
 予定より早く王都に戻った軍師に呼び出されたのは、皇帝から言葉を賜った次の晩だった。来週まではお知らせできないとあきらめていたから、吉報を伝えようと、クラトスは喜び勇んで軍師の部屋を訪れた。
 淡い赤の野いばらが一輪ひっそりと飾られた黒漆の卓に向かい、軍師は肩肘をついて物思いに耽っていた。糸引く滝のように流れ落ちる青い髪と軍師が纏っている薄い水色の文官服、白い花器が初夏の空気をひんやりと飾っていた。唯一、花弁が落ちようとしている野いばらが落ちる日を浴びて、軍師の色白な面に暖かみを添えていた。いつもなら、クラトスが入ってくれば、あの美しい宝玉の目を輝かせて迎えてくれるのに、その夕刻、軍師は大儀そうに顔をあげただけだった。
 しかし、予期していたより早く会えたことと自らの昇進のことで頭が一杯で、クラトスは軍師の沈んだ雰囲気には気が回らなかった。軍師の横に座るように促されれば、素直に腰掛け、己が拝命した大役について話し始めた。
 中央に召しだされてから、大きな戦を経験したことのない若い武官はまだ恐れを知らない。だから、皇帝から直接声をかけられたことに畏れ多いと言いながらも、己に与えられた任務についてそれは嬉しそうに語った。軍師はいつにもまして純真にこちらを見る恋人の喜びに水をさすのも躊躇われ、クラトスの言葉に相槌をうった。
「それは良かったな。お前の努力が実を結んだのだ。昇進、おめでとう、クラトス」
「ありがとうございます。これも、ユアン様がいろいろとご指導くださったからのことです」
 飛びつかんばかりに身を乗り出し、軍師の手をとって感謝の言葉をもらす大事な想い人にさすがに正直な事情は伝えられなかった。心からの喜びに輝きが増して、いつもより赤味のある琥珀色の瞳には、何の疑問も浮かんでいない。それこそ、クラトスがミトスの思惑を知ったら、何と思うだろうか。
 生真面目で裏を読むことを知らない青年武官は、一身をささげる皇帝に自分が嫉妬されているとは思いもよらないだろう。そのように思われること自体、理解できないかもしれない。だが、クラトスのことだ。ミトスと彼のこの前の会話を聞けば、板ばさみになる彼のことを思いやり、自分の身分に引け目を感じて、あっさりと身を引こうとするかもしれない。いずれにしろ、これはミトスと彼の問題だから、クラトスには気づかないで欲しかった。 
 皇帝と彼の間のことだけではない。冷静に現状をみれば、ミトスがクラトスに与えた任務が如何に難しいことであるか、誰でもわかる。しかし、今、こんなに嬉しそうにしているときにわざわざ言ってやることでもないだろう。直後だから有頂天になっているが、賢いクラトスのことだ。ほっておいても少し立てば、彼が今考えている問題の多くは自分で知ることだろう。
 若い武官に気取らせまいと思いながらも、ユアンは昨晩のミトスの思いつめた表情を思い出し、無意識の内に先行きの難しさに軽いため息をこぼした。無我夢中で話をしていたクラトスはその軍師の反応に首をかしげた。
「ユアン様、申し訳ありません。つい、私のことばかりお聞かせして、きっと退屈されたのではありませんか」
「いや、クラトス。お前が嬉しければ、私だって心地よい気分になれる。しかし、西域はお前が思っているより遠い。お前が西に行ってしまうとなると、しばらくは会えなくなるな」
「ユアン様、すみません。お気持ちも知らずにはしゃぎすぎました。ご一緒に来ていただけるわけでもございませんのに、ずっとお傍にいられような気でおりました」
 彼の言葉にたちどころに反応を返し、恋人はしょんぼりとした表情を浮かべた。彼のことをいつも大事に想ってくれているのは分かっているのだから、がっかりさせるようなことを言うべきではなかった。少しの愚痴にもたちどころに切なそうな顔をする武官が愛しい。
「クラトス、そんな顔をするな。せっかくの日だ。祝杯をあげようではないか。たまには二人きりで酒でも楽しもう。お前がしかと働けば、すぐに会える。さあ、そちらの杯をとっておくれ」
 クラトスのお祝いのためにと、アリシアが気をきかせて用意してくれた酒器をさす。若い武官はぱっと立ち上がり、盆の上に乗せられている杯と酒の入った優美な曲線の白い陶磁の水差しを取りにいった。
 今日ぐらいは、大切な者の笑顔を見ていたい。酒を飲ませてしまえば、彼の心の中に秘めている憂い事には、きっと、気づかれないだろう。
「今日は思い切り飲んでも大丈夫なはずだ。明日は私も予定が入っていないし、お前も当面はこちらで仕事の引継ぎ、その後は新しく自分の軍を仕切らねばならないだろう。だから、のんびりできるときは貴重だ。さあ、杯を取れ」
 クラトスは軍師がにっこりと微笑んで、並々とついだ杯を差し出せば、押し頂いて一気に飲んだ。滅多に口にできない上質の酒は、のどをするりと通り、今日の喜びを倍増させた。抱き寄せられて仰ぎ見る軍師の濃い青い目に、ちらりと浮かぶ不安の色には気づかなかった。
 酔うほどに彼への永遠の愛を誓っていた恋人は、ふと言葉を漏らさなくなったと思ったら、もう目を閉じていた。ゆらりと傾ぐ体に軍師は手を回し己の肩に寄りかからせた。
 少しだけ自分より高い青年の体温の心地よさを味わいながら、抱える肩を軽くさすった。その無防備な仕草に、彼の全てを信じて、純真に身を預けるこの存在に、魅了される。
 昨晩から、ずっと考えていた。いっそ、彼がこの愛しい者を突き放せば、ミトスは自ら言い出したことを撤回するかもしれない。クラトスがこの部屋に来るまでは、この青年に、うまく別れを言い聞かせることはできないかと考えていた。
 愚かだった。自分に言い聞かせることができないのだ。日頃は落ち着き払った整った顔に浮かぶ喜びに満ちた表情を見れば、彼への愛に満ち溢れた言葉を聞けば、彼への想いに突き動かされる行動に接すれば、彼自身がクラトスをどうしても手離せない。
 二人の間に偽りの言葉など、決して入り込むことはできない。
 たわいもなく酔って寝てしまった恋人を肩に寄りかからせながら、軍師は初夏の星をながめる。ミトスも自らが推した手前、クラトスの準備に自分が力を尽くしたところで、文句は言えないはずだ。それに、彼が尽力するのは、クラトスが自分の恋人だからというわけではない。帝国の大義でもあるのだ。この有能な武官にはそれだけの価値がある。
 クラトスの軽い寝息が彼の首を撫でた。いっそ、この大切な恋人と二人で逃げ出すことで解決できるのなら良かった。クラトスと二人なら、どんな生活になろうと気にならない。二人だけで生きていけるなら、今よりも幸せかもしれない。
 だが、彼もミトスも、身に流れる血がこの大地と結びついており、帝国という重たい頚城から逃れることはできない。もし、ミトスがこの国を投げ出しても彼を望むのであれば、さっさとクラトスの手をとって逃げ出しただろう。彼の力はすべてミトスの手の元にあるのだから、逃げることが愚かなことではあったとしても、きっぱりとミトスから離れることができたはずだ。
 だが、皇帝は決して最後の線は越えない。今回の人選でも、後数年先であったなら、大軍を擁したクラトスを先頭に立たせることは決して間違っていなかった。ミトスは自分でそうとは気づかなくとも、国の民を常に優先していた。南への進軍でも、入念な下準備の間に皇帝陛下が自ら出す地方への指示に、自らの民を尊重するその姿勢に民がついてきたからこそ、快勝したのだ。
 それこそ、望まれる物は、持っているものなら、彼の力で及ぶものならを全て差し出せた。己の心だけが自分ではままならないのに、唯一望まれるのはそれなのだ。彼がそれを差し出せないと同じように、ミトスもそれを欲することをあきらめられない。互いの心だけが制御不能だった。
 軽く身じろぎして、頭の位置を変えたクラトスの頬を撫で、また空を見やる。さきほどまでくっきりと見えていた太白(金星)が赤い凶の星(火星)に重なったかと思うと、ぼんやりと霞の下へと消えた。これは何の予兆だろう。軍師は神殿の占いはさして信じたことはなかったが、滅多にない晴れた夜空の星の動きになんとも言えない冷たさが胸を走った。
 繰言を言っている場合ではない。この恋人を守るために、帝国が打撃を受けないように、できる限りの手を打たねばならない。
 何代も皇帝の下で、幾多の将軍達が西域に送りこまれてきたが、王都まで戻ってきた者はいなかった。その原因は将軍の力不足、長すぎる兵站の弱さ、短期間で征服しうようとする戦術のまずさ、いや、そもそもの戦略からして相手をよくも調べずに誤っていたことに寄っていた。あらゆることが積み重なり、結果常に無残な結末を迎えていた。
 だから、今回の進攻も慎重に準備を積み上げてきた。この一年、ようやくとば口に立っただけで、彼の考えている布陣にはなっていない。短期間で何ができるか分からないが、手をこまねいていれば、確実に負け戦となる。
 肩にかかる若い武官の心地よい重みと温かさを感じながら、軍師は明日からの指示と皇帝への説得について、思いを巡らせた。遠くに夜の闇で唄う鳥の忍び音が聞こえ、己の考えを遮られた。とたんに、何を夢見ているのか、耳元で寝言に彼の名をつぶやく恋人の声がした。耳を擽る青年の息は甘い空木の香がする。
 うっかり、考え事をしている間に時間がたったようだ。そろそろ、夜も更ける。どこかでかすかに聞こえる小夜啼鳥の歌よりも遥かに青年の掠れた呼び声に心踊らされた。恋人の無邪気な寝顔を見ているのも楽しいが、せっかく傍らにいるのだから、熱い眼差しを浴びて、彼の名を呼ぶ甘い声を聞きたい。軍師は恋人を優しく揺すり起こし、いまだ、夢と現の狭間にまどろんでいる青年の唇に口付けを落とした。
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