唐桃

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春疾風(一)

 皇帝の私室は身の回りの面倒をみる数人の限られた侍従以外、何者も入ってこない。それでも、昼に宣下したことをもう一度考えようとミトスは鍵をかけ、一人静かに私室に篭っていた。そよりと吹き寄せる春の風もうっとうしく、窓もわずかしか開けていなかった。古びたその部屋の薄暗い天井をじっと見つめ、ミトスは今日の結果を思い返した。
 誰も反対はしなかった。唯一反対を唱えそうな者はしばらく戻ってこないだろう。しかも、邪魔者は己が与えた命になんら疑問も抱かず、それどころか重要な任務を直々に与えられたことに感激していた。
 だが、彼の心はまだ満足していなかった。これから先が重要だ。邪魔者の始末は簡単だ。だが、軍師の攻略はそう簡単にはいかない。
 高ぶった気分に近づいて来るものの気配が読み取れなかった。固く鍵で閉ざされた扉も用をなさないことをミトスは知らされた。人払いされているはずの私室の前で、突然雷のようなバチっという音がしたかと思うと、金属が擦れあい、割れる甲高い音がした。続いて、鍵が床に落ちてけたたましく来訪者を教えた。
 ことさらにゆっくりと振り返れば、開かれた扉の前に予想通りの者が息をはずませて立ちはだかっている。開いた扉からぬるりとした風にのって、ユアンの香が漂った。しかし、皇帝が花の香にでも例えようと口を開く前に、旅装も解いていない軍師はつかつかと近づいてきた。
「ミトス、今度の軍配置はなんだ」
 ミトスはその言葉遣いに軍師の動揺をかぎつけて、くすりと笑った。それにしても、今宵、ユアンが戻って来るとは思っていなかった。予想外の軍師の動きに予定していた宥める手順がすっかり狂わされそうだ。いや、軍師のことだ。ミトスが言を左右に言い逃れする裏のことなど、お見通しだろう。
 明らかに真正面から尋ねてきているユアンをミトスも真っ直ぐと見返した。
「ユアン、視察からずいぶん早い帰りだね。戻りは来週と聞いていたのだけど、予定が変わったの。そんなに慌てて来なくても、報告は明日でよかったのに。そうそう、扉を開けるなら、鍵は壊さないでおくれ。新しく作りなおすには、近頃は腕のよい職人がいない」
 軍師はまったくミトスの言葉を聞いていなかった。足音も高くミトスが座る卓まで来ると、前に立ったまま、ユアンはさきほどと同じ問いを繰り返した。
「ミトス、あの配置は何だ。なぜ、私が留守の間に勝手に変更した。散々相談していたことを急に変えられては、今までの準備もこれからの予定も皆白紙にもどる」
 ああ、怒っているユアンは格別に美しい。ミトスはこちらに身を乗り出さんばかりに卓に手をついて、はっきりと文句を言う軍師を見上げた。軍師の青い髪が濃い紺地の上に春の柳を表す柔らかい緑葉の細い刺繍が施された旅装に映える。怒りに光る青い瞳は、あの裏切り者ではないが、確かにいつ見てもどきりとさせられた。
 誰にも渡すつもりはない。このところ、ずっとあの邪魔者の始末について考えていた。本当なら、この胸の中の苦味をあの虫けらの命で償ってもらいたいくらいだ。だが、よりによって忠義を絵に描いたようなあの男を反逆罪で牢に放り込むような見え透いたことはできない。仕事ができることに免じて命をとるまでのことはしないが、彼の大切な者に手を出すような不埒な真似は決して認められない。
 散々考えた末、誰にも文句を言わせない片道切符を用意してやった。
「ねえ、南の視察はどうだった。せっかく、こんな時間にここに来てくれたのだから、一杯くらいは付き合ってくれるつもりなんだよね。ユアン」
 皇帝は他の者ならうっとりとするであろう笑みを浮かべた。もちろん、軍師はその表情にごまかされはしなかった。さらに怒りを煽ったのだろうか、腰につけた光の剣がカタカタと軍師の気に共鳴した。まるで、強い雷雲に閉じ込められたかのような反応だった。
「ミトス、時間を無駄にするな。私は人事のことを尋ねている」
 軍師は上から皇帝を見下ろし、きつい口調でまたしても問いを繰返した。ここまで怒っている軍師を見たのは、マーテルを失った後に犯人をどうしても突き止めようとするのを制止したとき以来だ。あの裏切り者の武官をもう少しおだてておいて、ユアンのご機嫌を取ろうと考えていたが、こうなっては姑息な誤魔化しは通用しないだろう。
 ミトスは黙って自分の前の椅子を指した。さすがにつったったままの軍師に答えるつもりはない。軍師はいつもの優雅な所作などどこかに捨て去ったかのように、ガタリと音を立てて座った。
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