唐桃

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余寒の月(二)

 後宮の最奥に位置する長春宮の辺りは建物の数も少なく暗い。ひょうと脇をすり抜ける風が少し勢いを増した。その冷たさにミトスは身を震わせ、暖かい部屋へと足を速めた。ひょっとして、今宵の寒さにもう軍師も仕事を終えて休んでしまっただろうか。
 回廊の細い柱の続く先に目を凝らせば、奥の方に、まだ、かすかに明かりが点いているのが見える。もともと宵っ張りな軍師のことだから、起きていることだろう。今日の領地替えの報告とでも言えば、彼の訪問を断ることもないはずだ。春とは言えどもひどく冷たい空気に少しだけ不安を煽られ、ミトスは長春宮の前に着いた。
 建物への門はすでに閉じられていた。脇の通用口はいつでも開いているからこちらから入る。軍師が仕事に使っている表の宮は暗くなっており、すでに仕事を切り上げているのが分かった。侍従達も引き上げたのだろう。人の気配がない。
 勝手を知る中庭の向こうの建物をめざす。中庭へ通じる小さな門には軽い門扉があった。どこもかしこも静まっている。今宵はもう休んでしまったのだろうか。ちらりと疑問を感じたとき、門扉がゆらりと揺れた。その奥の中庭に人影を感じた。抑えてはいるが、いつもの慣れた気をかすかに感じる。
 風に揺らぐ門扉をゆっくりと押すと、わずかな隙間から軍師の影が見えた。彼がさきほどから思っていた人物は月を見上げて立っていた。凛とした白い月光の中に立つユアンは、はっきりとした陰影に縁取られ、いつにもまして儚い雰囲気を漂わせていた。待ち焦がれるような、寂しそうな表情にちらと罪悪感を感じる。彼にこんな顔をさせてしまうのも、自分がいつまでも解放しないからだ。
 だが、放すことなどもっての他だ。こんな晩なら、彼も感傷に溺れて、自らを預けてくるかもしれない。同じ月に感じ入ってくれているとは、都合が良かった。飢えた心の中に淡い期待も浮かび、声をかけようと扉に再度手をかけたとき、別の気配を感じた。
 透明で清らかな気が立ち上り、冴えた月明かりの中を動き、姉が立ち戻ったような錯覚を覚えた。目をこらせば、反対の側から別の人影が近づいてくる。
 ユアンはさきほどの表情とは一変、彼には見せたことものない柔らかい表情で微笑むと、待ち焦がれていたかのようにその人影へと早足で近づいていく。とてつもなく苦いものが口の中に広がった。胃の中にひどく重たいものが沈んでいくことが感じられた。
 大柄な影はもちろん姉ではない。マーテルは死んだ。自ら、冷たくなった姉の亡骸を豪奢な棺へと横たえたのだから、間違いない。では、あれは誰。
 二人は歩みよるとしばらく向かい合っていた。やがて大柄な影は軍師の前でゆっくりと膝をついた。
「ユアン様」
 低くしっかりとした声がミトスの耳にも届いた。この声は男だ。しかも聞いたことがある。なんということだ。起きてはならないできごとだ。ミトスはふらりと門に寄りかかった。怒りで目が霞んだ。
「静かに。まだ、召使達も寝ていまい」
 制するユアンの声も弾んでいる。そう思えば、あの若い将軍はよくユアンのことを見つめていた。だが、軍師のことを見つめる瞳はこの王宮には数え切れないほどある。遥か末席の若い将校など物の数にも入らないと高をくくっていた。食い入るようなあの真剣な眼差しに、まったく田舎から来た若い者は礼儀も知らないなどと、微笑ましく思っていた自分が滑稽だ。
「お会いしたかった。昨晩、急ぎ王都に戻ってまいりましたけれども、ユアン様とようやくお目にかかれるかと思うと今朝から仕事も手につきませんでした。あなたのお美しい青い目が前にちらつくのです」
 跪いた男は伸ばされるユアンの手を取り、口元に運んだ。
 信じられない。今朝方、自分に深く拝頭していた武官が、何の躊躇いもなくユアンの手に触れている。しかも、軍師からその手を与えていた。これ以上、この光景を見ていては駄目だ。怒りと混乱に今にも叫びそうになる口を押さえ、背を向けて戻ろうとしたが、ミトスの足は動かなかった。細い隙間の先の月に照らされる恋人達から目を逸らすことができなかった。
 ユアンがもどかしそうに青年の手を引いたかと思うと、すぐに男を立ち上がらせた。月明かりにユアンのほっそりと長い腕がそれはやさしげに伸び、男の頬を撫で、その男を胸に抱え込んだ。背に手を回し固く抱擁した恋人達は、やがて青白い光が差し込む中、互いの口を求めてその顔が重なりあった。
 ミトスは震える手で門扉を掴んだ。今すぐ、そこに踏み込んで、ずうずうしい男をユアンの胸から引き剥がしたかった。ユアンの目の前で、首を刎ねてやればどんなにかすっきりするだろう。いや、そんなことをしては駄目だ。そんなことをすれば、マーテルを失ったときのように、ユアンはまた何年も心を閉ざすだろう。
 だけど、このままにはしない。何か考えなくてはならない。
 皇帝はどうにか寄りかかっていた体を起こすと、また、隙間の先に目をやった。
 長い情熱的な口付けを終えると、裏切り者の武官はユアンの胸に再び体を寄せていた。ユアンの背に回された男の手は、長く零れ落ちているユアンの髪を静かに撫でている。その手の優しい動きに姉を思い出した。見られているとも気づかない恋人達は再び軽く口付けを交わし、親しげに腕を回し、ユアンの私室の方へと歩き去った。
 体を切り刻むような冷たい風が吹き、ミトスが立ち尽くす先の門扉がきいとかすかに軋んだ音を立てた。その音に皇帝は握り締めていたこぶしを緩め、詰めていた息を吐き出した。西域への進攻はよく考えて手直しする必要がある。
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