唐桃

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余寒の月(一)

 先代の皇帝の時代に、西の領地は自然の要塞ともいえる砂漠の際まで広がっていた。しかし、南の豪族を抑えるために、大半の兵を引き上げたため、砂漠へと至る広く冷涼とした草原地帯は、拠点のいくつかの町を除けば、帝国の支配を離れてしまった。
 名目上、帝国から与えられた太守という名目の下、それらの草原の国は互いに異なる言葉を使う騎馬民族によって実質支配されている。名前だけでも帝国からの許諾を待っているこれらの地域を、実質支配するためには、数ヶ月はかかる人の移動が重要となる。
 草原までの主要な街道は、かろうじて帝国が維持していた。これをさらに確固としたものにするために、リーガル大将軍が配下の若い将軍を使って整備を進めていたが、この一年でどうにか王都との間で安全な行き来が可能となった。
 街道の整備と共に、軍師や宰相補佐と何度も検討した結果、皇帝は周囲の郷や県の行政長を入れ替え、ついに草原までの道の確保は終わったと確信した。後はリーガルに命じて、軍を徐々に西進させる予定だ。これで、乾燥した草原の先にある蛮族の国の攻略への足掛かりはできるはずだ。


 初春の冷たい風がすいと脇を抜け、灯篭の金飾りをちりりと鳴らした。新しい干拓地を巡る領地替えの話ですっかりと時間が立った。ミトスは供のものを先に下がらせ、一人で後宮の折れ曲がった回廊を歩いていた。夜更けのこの時間は人影もなく、考え事をしながら歩くにはちょうど良かった。
 帝国の第二十一代皇帝にして、帝国軍の大元帥であるミトス・ユグドラシルは、先日、大将軍から奏上された西方地域の情勢の不安定さに、軽いいらだちを覚えていた。これでは、自らが先頭に立って西域への進軍することが難しくなる。誰にも文句を言われない西方進攻へのきっかけが欲しかった。
 お気に入りの軍師は西方への進出にひどく慎重だった。それどころか、今回の進軍にも先頭に立ちたいとする彼の願いをきっぱりと否定していた。確かに王都を空ける時間は、南の征伐とは比較にならないだろう。軍師が反対する理由は的を得ていた。
 だが、あの南の進軍からすでに一年が立った。ユアンは進軍直前の二人の間で起きた出来事について、まるで何もなかったかのように振舞っている。南へ進軍している間こそ、彼の間近に常に控えていたが、その後、二人きりで過ごすことを避けているのは明らかだった。
 どうすれば、あの軍師に警戒心を抱かせずに、再びこちらに振り向かせることができるのだろうか。同じ後宮にありながら、マーテル亡き後、永楽宮からさらに離れた位置にある長春宮に移った軍師は、彼の私室に呼び出しをかけても、あの後は何のかんのと断りを入れるだけだった。それどころか、たまにふらりと長春宮に行っても、前以上にあの他人行儀な態度を決して崩さない。それは、ミトスにはひどく堪えた。
 これが、戦いの中にあれば、寝るときでさえ、傍についていてくれる。そこには個人的感情はまったく存在せず、軍師の責務と考えているからの行為と分かってはいたが、ミトスにとっては心地の良いものだった。そもそも、皇帝という存在ではなく、ミトス個人に語りかけてくる者が、今や、姉の夫であった軍師しかいないのだ。進軍中のわずかな休憩時間に軽口をたたく軍師の笑顔や、夜、眠りにつく直前に長い行軍の疲れを気にするやさしい口調が恋しかった。
 軍師もそこまでは気づいていないだろう。西への帝国の支配は、ただの口実だ。皆が、ミトスが亡き父の弔い合戦を済ませ、いよいよ、彼の父が望んだことに取り掛かったと勘違いしている。だが、実のところ、南の進軍でさえ弔い合戦だと思ったことは一度もなかった。もちろん、王都の喉元で反抗されるのは鬱陶しかったが、たたきつぶすだけなら、彼が出て行く必要はなかった。彼が軍の先頭に立ったのは軍師を傍らに置くためだ。結果、民の生活が良くなれば、彼が何をしようと誰も文句を言うものはいない。
 どうやったら、西への進軍に自らが出ることが可能だろう。さすがのミトスも戦略的な言い訳を思いつくことができなかった。父皇も西の進軍は途中までしか進んでいない。あれだけ戦好きだったくせに、どうして南のつまらない場所で斃れたのだなどと、勝手なことを思う。
 物思いに耽っていたせいか、永楽宮への曲がり角を超えていた。人の気配が感じられないその場にはっと立ち止まった。以前はよく足を運んでいたこの先には、姉と軍師の住まいがあった。思えば、あの頃のまるでへだてのない付き合いこそ、貴重なものだった。姉が失われ、残ったのは、互いに孤独な皇帝と軍師だけだ。
 いつも以上に感傷的な気分になり、その先へと進む。今は使われていない慶寿宮の前で月でも見ようかと立ち止まった。マーテルが存命の頃は、この館はあの二人の新居だった。若い侍女達が多く仕え、いつもさんざめいた雰囲気があった。しかし、今は主を失い見る影もない。その荒涼とした寂しさに、数年前の打ちのめされたユアンのつらそうな顔が重なった。
 そういえば、この一月、ゆっくりと話をしたことがなかった。初春の青白い月を共に見ようと誘えば、風流好きな軍師のことだ。久しぶりに彼と酒を楽しんでくれるかもしれない。
 自らの思いつきに、長春宮へと急ぎ足を運んだ。
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