唐桃

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夜来香(一)

 この夏に、王都近くでまるで帝国に反抗するかのように、再び夜盗が姿を現すようになった。おそらく、南で反旗を翻した豪族どもとは別に、最近の王都の活況ぶりが気に喰わない者の仕業に違いないと軍師は推測した。
 すでに視線が西へと向いている皇帝は、主だった軍をそちらへと動かし始めており、夜盗の始末は王都警備軍に任せられた。
 帝国軍の裏をかくように神出鬼没な盗賊たちの掃討に部下達が手を焼いた。王都の復興に勢いをつけたい宰相補佐のゼロスや西の平定へ借り出されて体の空かないリーガル大将軍が嘆願したのだろう。夜盗の討伐に時間のかかることに業を煮やした皇帝の命により、クラトスが直々に現場へと赴くこととなった。
 軍師が予想したとおり、半年前に抑えたはずの南部の豪商が裏で操っていた。王都に物産が集中しだしたことを危惧したのだろう。クラトスは軍師の指示に従い、帝国が南部の要地とみなしているその場へ乗り込み、豪商の署名した書付をつきつけることで、どうにか事を収めた。
 クラトスは事の解決を見るまではと、南でも最大の商都に二週間ほどとどまり、先週ようやくのことで都への帰途についた。軍師から数通の指示が届いていたが、まとめて報告する方がよいであろうと、早馬を乗り継いで数日で王都へ舞い戻った。
 王都は数週間離れている間に、すっかり夏も盛りとなり、至るところに夏祭りの飾りつけが出ていた。乾いた空気と強い日差しのなか、露店には西の地域で作られている大きな瓜やはしりの葡萄が並び、子供達が井戸で水をかぶって歓声をあげている。久しぶりに見る王都の活気と豊かさにクラトスはほっと一息ついた。


 夜盗の被害状況の調査から討伐に至るまで、クラトスが自ら指揮していたため、一ヶ月以上も軍師と会うことがなかった。
 良い結果を一刻でも早くあの方にご報告したい。それ以上にお目にかかりたい。館に戻ると、直ちに使いを王宮へと送り、クラトスは埃にまみれた旅装を慌しく解いた。軍師も待っていてくださるだろうと、館の者が止める間もなく、クラトスもすぐさま王宮へと向かった。
 南部地域のことにはいまだ神経質になっている皇帝へ少しでも早く吉報を伝えたいと、結果を待ちかねていたリーガル大将軍と王宮警備隊のフォシテス将軍へ報告を出した。だが、軍師は宰相補佐のゼロスと共に皇帝に別件で呼び出されているとのことでその場には現れなかった。
 皇帝の呼び出しが優先されることは当たり前だ。しかし、クラトスはちくりと胸の中が痛んだ。こんなに慌てて王宮に上がることもなかった。
 今日は夏祭りだ。庶民の祭りだから、王宮の奥では何もご存知ないかもしれない。だが、夏祭りの宵は恋人同士で過ごすのが慣わしであり、彼の部下達も今宵に王都に戻れて、大層はしゃいでいた。クラトスもこの日とわかっていたからこそ、この数日を寝る間も惜しんで戻ってきたのだ。
 その場に軍師は姿を見せなかったことに少なからず落胆して、クラトスは執務室へ戻った。皇帝のお呼び出しでは、今日はお目にかかれないだろう。深いため息がこぼれた。
 軍師は気にしていないようだったが、クラトスは軍師へと向けられる皇帝の目線や、そのごく親しい物言いに、たまに胸の奥がひりひりと痛んだ。お身内なのだからと思いながらも、あの強い眼差しを軍師へ差し向けられるのは苦しかった。皇帝陛下にさえ、愛しい人の側近くにいて欲しくなかった。
 帝国の軍人なのだから、皇帝に仕える者なのだから、こんな気持ちになってはいけない。勝手にあの方の恋人などと思い上がってはいけない。あの方に自分だけを見ていて欲しいと願ってはいけない。クラトスは何度も自分に言い聞かせてきた言葉を心の中で繰返した。
 ふと気づくと、執務室にかの人の香がほのかに漂った。はっと気を取り直すと、軍師からと思しき封書が墨の色も鮮やかに彼の名前を表に書かれ、彼の机に置かれていた。とたんに、さきほどまでの苦しさは消え、彼は封書を慌てて手にとった。


 夏のまだ明るい夕べを通いなれた六光宮から後宮へと通じる通用門をくぐった。その先の回廊を始めて軍師に連れられたときには、まったく覚束ない思いをしたものだが、今や、クラトスもすっかりと道順を覚えていた。
 細長い回廊の灯篭には、まだ火がともされておらず、回廊の柱には夏祭りを祝う誰かがつけたのであろう、緑も鮮やかな笹が侍女達が作ったらしい色とりどりの飾りつけを揺らしていた。
 今日が夏祭りだということは、どうやら後宮の中でも知られているようだ。ユアン様もそれをご存知で、私のことを待っていてくださるかもしれない。クラトスは回廊に描かれた天上の人や人も行けぬ高い山にいる仙人の姿までもが彼を手招きしているようで、ひどく心を弾ませていた。
 長春宮へ通じる回廊には、庭師が丹精している夜来香(イエライシャン)が絡み付いている。この季節、薄黄色の細かい花をたくさんにつけ、まるで夏祭りの笹飾りのように柱を飾っていた。長く伸びる蔓は、大切な方の私室の格子窓も囲み、くっきりと朱塗りの窓枠と艶やかな緑が印象的だった。
 裏の扉を潜り抜けるとき、涼しい夕風に運ばれるように夜来香の上品で優しい香が彼を包んだ。ユアン様も毎夕これを楽しんでいらっしゃるのだと思うと、また、あの満ち足りた気分が湧き上がってきた。
 その扉の奥で、彼の足音で分かっていたのだろう。いつでも見惚れるほっそりとした影が夕日を背に、椅子から立ち上がり、こちらへと足を運ぼうとしている様子が目に入った。普段だったら、座ったままでいらっしゃるのに、軍師も彼を待ち望んでくださっていたことが分かった。
 クラトスは例えようもない高揚感に包まれ、彼を迎えようと広げられた腕の中へ飛び込んだ。


 久しぶりの逢瀬に胸を躍らせるクラトスは最初ユアンが機嫌の悪いことに気づかなかった。愛しい軍師の顔を見るだけで胸一杯になったクラトスは、他に話すこともないため、この一月の遠征について語った。
 いつもなら、彼の戦術に鋭い批評を浴びせる軍師は今日に限ってあまり返事を返さなかった。さすがに途中でクラトスも気づいた。
「ユアン様、今日はどうなされたのですか。お元気がないようですが、お具合でも……」
 口数の少ないユアンを気遣って、クラトスが心配そうに尋ねれば、ユアンはさらに顔をそむけた。
「具合は悪くない」
「しかし、少しお痩せになったようですし、今日はたいそう暑いですから、無理なさらないよう……」
「痩せてはいない。クラトス、お前は私と一緒にいたくないのか。部下と共にいるほうがよいのか」
 いつも冷静で穏やかなユアンの詰るような口調に、まさかという期待がクラトスの胸に浮かぶ。
「そんなことをお聞きにならないでください。答えはご存知ではないですか」
「だが、さきほどから討伐の話ばかりだ」
 私と同じように、この方もこの一月、ずっと淋しく思っていて下さったのだろうか。職務の最中に本当は別のことばかり考えていたと言っても軽蔑されないだろうか。不安と期待が胸の中を騒がす。
「申し訳ありませでした。ご指示いただいた封書にお返事も差し出しておりませんでしたので、まずは報告をと思いまして、殺伐とした話ばかりで」
 クラトスが浮かべるかすかな笑みにユアンがそっぽを向いた。
「どうして、返事をよこさなかった」
「まとめてご報告した方がよいかと……」
「お前が無事かどうか、私に分からないではないか」
「ユアン様、……。あの……」
「お前がまた深追いなどして、怪我をしていたら」
 真剣なユアンの目にクラトスはかすかな期待が確信へと変わる。
「ご心配いただいてありがとうございます。これからはユアン様にお返事は必ず差し上げます」
「分かればいいのだ。お前は私に会わないでも平気なのだろう。だが、私は、……」
 軍師は絶句し、自分が言おうとしたことに今気づいたかのように頬を染めた。クラトスは続きを待ったが、ユアンは気まずそうに目を逸らした。
「私は平気ではございません。ユアン様にあの調査の中止を申し渡されましたときは、危うく御前で泣いてしまうところでした」
 耳元で囁けば、ユアンはクラトスを胸に強く抱いた。
「泣いて縋ってくれれば、時間を無駄にしなくてすんだ」
「帝国の将がそんな女のようなことをしてよろしいのですか」
「私の前だけなら許す。クラトス。私も正直に言わねばお前にすまないな。お前が都を離れている間、お前のことが心配で心配で、夜も眠れなかった。便りの一つくらい寄越せ。会いたかった」
「私もお会いしたかった。いつでもお会いしたい」
 クラトスは再度ユアンの胸に顔をうずめ、背中へ腕を回した。
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