唐桃 

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夜来香(二)

 久しぶりの軍師の腕の中はいつも以上に心地よかった。クラトスを酔わせるユアンの香に埋もれ、手の中でするりと逃げる美しい髪の感触を味わう。
 愛しい人からの告白に陶然とした彼の肩をゆるゆるとさする手が夏の宵の熱気をさらに煽った。
 今日は夏祭りだ。そのために戻ってきた。ユアン様はこんな祭りのことは何も気にされないことだろう。だけど、今日は一つだけ親しい者に向かって心に秘めた願い事を口にしてもいいと言われていた。
 ひょっとして、今ならねだっても許してもらえるだろうか。
 クラトスは熱くなった体をユアンにゆだねながら、考える。好きだと、愛しいと何度も言われているが、それこそ、蕩けるような口付けを数え切れないくらい与えられても、体を求められたことはなかった。それは、クラトスの心の底にひっかかり、いつも不安を呼び起こした。
 自分は男だ。それも、気の利かない無骨な軍人だ。周りのたおやかな侍女達や貴族の姫達を見慣れた目には何の魅力もないのだろう。ゼロスのように、男であっても目を引かれるような者さえ、周りにいる。それどころか、最も近い身内の方からして、この世の者とは思えない美しさと皆が囁く皇帝陛下なのだ。
 高位の貴族に生まれていたなら、あのような魅惑的な所作を身につけられたかも知れないが、成人するまでは何もない田舎育ちだ。学問も一通りだけの彼は剣を振るう以外に何のとりえもない。剣だって、皇帝陛下やリーガル大将軍、いや、目の前のこの方ほどの腕はないだろう。
 だから、会ってくださるだけで喜ばなくてはならないのに、自分はかの方にもっと求められたい。もっと、愛されたい。死が隣合う戦地に出る前に、一度でいいからこの方と愛しあいたい。そうしたら、もう何も思い残すことはないだろう。
「なんだ。急に黙って何を考えている」
 言えるわけがない。こんな下賤なことを考えているなど知られたら、今度こそあきれられるだろう。クラトスがうつむいたまま慌てて首を振った。
「何も、いえ、夏祭りのことをちょっと……」
「そう言えば、ゼロスが騒いでいたな。今年の王都は大層祭りで賑やからしいではないか。そうか。お前も祭りを楽しみたいのか。ゼロスの話では恋人とどこやらの神殿へ行くといいことがあるそうだ」
「恋人と……」
「私達も行ってみるか。いいことが何かわかるかもしれないぞ」
「えっ、あの、私とユアン様が……」
 クラトスはその言葉に顔を赤らめた。恋人。この方にもそう思っていただいているのだろうか。
「そんなかわいらしい顔をするな。お前が行きたいのなら、こっそり覗きに行くくらい大丈夫だ」
「いえ、神殿に参りに行きたいわけでは、……。ユアン様とこちらに二人でいた方が……」
「そうか。お前を皆に自慢するのも楽しそうだがな。では、夏祭りの何が気になるのだ」
 ユアンの言葉の一つ一つに反応を寄越す愛らしい恋人は、ますます顔を赤らめて首を振った。
「私に言えないことか」
「……。願い事が……。願い事があるのです」
「クラトス。夏祭りの願い事か。そういえば、ゼロスが言っていたな。親しい者に願い事を一つだけ言っていいとか。子供が親に欲しいものとかをねだるらしいな」
 そうだ。子供みたいなことなのだ。恋人だと思って下さっているのに、愛しているとおっしゃってくださるのに、もっと望んでしまう。我がままな子供のようだろう。でも、恋人なら望んでもいいではないだろうか。
 ちらりと彼を求める色が琥珀色の瞳に浮かぶのが見えた。久しぶりの逢瀬に大事な者を困惑させたくない。しかし、恋人が無意識に放つ色香に、ユアンはもう自分の衝動を抑えきれないところまできていた。
 ずっと大切にしたいと思っている。後宮のそれが外の常識とかなり違うことも、侍従たちの口ぶりから分かっている。いくらなんでも、誇り高い将校を己の望むがままにするのはまずいに違いない。周囲の目や本人の心持を推し量れば、手出しは憚られた。
「どうした。私にも聞かせられないのか。そんなに大切なことか」
 ここで、このまま押し倒したいという衝動を押し込め、ごく普通の調子になるように、さりげなくたずねた。だが、恋人と言われただけでほんのりと誘うような仕草を見せるクラトスは、まるで彼の心に気づいたかのように濡れた眼差しをこちらに向けた。
「……。ユアン様に……。いえ、何でもありません」
 クラトスは熱っぽい目で彼を見つめたかと思うと、さらに顔を赤らめ、いきなり横を向いた。その赤くなった耳たぶと白い首筋が彼の抑えようとしていた欲望をさらに煽る。彼の心内を何もわかっていないだけに始末が悪い。だが、愛しい者が自分でも気づかずに見せ付けるこの艶のある仕草に我慢できるほど、彼も人間ができていない。
 心の奥底の願望を見透かすような軍師の眼差しが苦しく、クラトスは軍師の腕から逃れようと体をよじった。とたんに、横を向いた体がいきなり軍師に引き寄せられた。
 クラトスの首筋に擽るように舌が這わされた。何をされたのだろう。
「正直になろうと言ったからな。嫌なら嫌と答えてくれればよい。その、私は後宮を出たことがないので、お前がどう思っているかはわからない。
お前は帝国の将で、私は軍師だ。おそらく人の口の端にのぼれば、お前のことを私の愛人と軽んじる者も出ることだろう。だが、私は、いや、お前もそう思っていてくれると信じているが、私たちは恋人同士だろう」
 軍師は確かめるように言葉を切った。クラトスは強く抱かれたまま、その言葉に答えるように軍師の肩へ顔を擦り付けた。
「この後宮では、いや、私は知らなかった。お前は知っているだろうか。侍従達が話していた。王都では、愛し合っている者同士だけで、将来を誓い、生涯の契りを交わすと聞いた。それに、ゼロスの話だと、夏祭りの宵には恋人に一つだけ心に秘めた願いごとをしてもいいのだそうだ。
お前が言わないのなら、私の願い事を先に聞いてくれ。私はお前と生涯の契りを結びたい。私はもう限界だ。お前と一月会わないでわかった。私はお前なしではいられない。他の誰にもお前を渡したくない。私のものになれ」
 クラトスはびくりと震えた。今、何をおっしゃったのだろう。それが今だけの言葉だったとしても、望むことさえも畏れ多いようなことを言われた。こんなことをお受けしてよいのだろうか。本当に私で良いのだろうか。
 恐々と愛しい人の顔を仰ぎみれば、真剣に彼の目を捉える青く輝く強い光があった。
 自分のような下位の者に許されることではない。そもそも、自分は男なのだから、後宮の愛妾にあがることさえありえない。それなのに、愛する方は二人だけの約束を下さろうとしている。ただ今、このときだけのお気持ちだったとしても、遠慮しなくてはならないはずだ。
 クラトスは唇を震わせ、声を出そうとしたが、彼の意に反して断りの言葉はどうしても音にならなかった。
 最初に出会ったそのときから、目の前の貴人にもう彼の全ては囚われていた。ずっと、心の奥底では願っていたことだ。否など、彼の口から言うことはできない。
 まるで、思いを読まれたかのように、ユアンに求められ、頭の中がぼんやりとした。息苦しい。何か言わなければ。
「……ユアン様……」
 名前しか呼べなかった。だが、ユアンはその言葉に隠しおおせない肯定の響きを聞き取った。クラトスの口を求めれば、珍しく若い武官から応え、その反応は雄弁にクラトスの答えを表していた。
 再度、囁く。
「お前が欲しい」
 かすかに耳元で紡がれた言葉に、クラトスは言いようのない喜びを感じた。この方に望まれている。もう、この言葉だけでいい。力の抜けた体をユアンに寄せた。
 答えないクラトスのかすかに熱くなった体を感じ、ユアンは黙って立ち上がった。うっとりと、しかし、少しだけ不安そうに彼を見上げるクラトスの手を引く。
「こちらにおいで」


 開け放たれた窓から、夜来香の甘い香が漂ってくる。馥郁と二人の周りを包む香は夜更けが近づいてきたことを教える。この香はユアン様が身に纏っていらっしゃる雰囲気に似ている。胸を躍らせ、うっとりとさせ、そのくせ、とてもほっとした気分がする。
 大切な方に握られた手は痛いくらいだった。そして、クラトスはこれがかの方と出会ってから、彼が待ち望み、彼を待ち受けていたときなのだとわかった。
 すでに何度も繰返されてきたことのように、とても静かな顔で見つめられる。かすかに胸に湧き上がっていた不安は消えた。この方にそのまま付いていけばよいのだ。
 彼の声に従うように、クラトスはすっと立ち上がった。その面はかすかに上気し、目は夕暮れの灯りに煌く。薄暗い部屋の中でいっそう若く見える武官は、彼の声にごく自然にうなずき、やんわりと手を握り返してきた。
「はい、ユアン様」
「愛しているよ」
 もう一度、軍師は繰り返すと、軽く恋人の唇に接吻し、歩き出した。クラトスは引かれるままに、ふらふらとユアンの後をついていった。
 ユアンの私室の奥には、一枚板に四季の花々が見事に掘り出された装飾のある扉がある。その先は見たことがなかったが、きっと、寝室なのだろう。
 軍師は躊躇なく扉を開け、奥へと歩き始める。クラトスが戸口で足を止めると、ユアンはじれったそうに、握っている手を再び強く引いた。
 部屋の中は明りが一つしか灯されておらず、ぼんやりと家具の影が浮かび上がっていた。大切な恋人の腰に手を回し、わずかに歩みが遅くなるのをそのまま寝床の前まで連れて行く。
「ユアン様、あの……ここで……」
 若い恋人は恥ずかしそうにたずね、ユアンの肩へと顔を埋めた。何をされても愛しい。灯りを背にしているから表情は見えなかったが、背に回した手にクラトスの動悸を感じた。そのまま、軽く抱えるように床の上へとその体を横たえた。クラトスは抵抗もせず彼の動きに従った。
 暗闇の中、クラトスが息苦しさのあまり、せわしく息を吐き出す唇を自らの手で塞ごうとする。優しくその手がどけられ、先ほどは異なり、ユアンから何の遠慮もない情熱的な口付けが与えられた。
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