唐桃

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進軍(二)

 皇帝の陣は、さきほどの騒ぎに気づいた側付きの近衛師団からの精鋭と将軍達によって固められいた。伝令をとりあえず送ったクラトスは自陣に戻る前に呼び出された。副官や彼の面倒を見ている兵が傷の手当をと止めたが、クラトスは振り切って、丘の上の陣へとあがった。
 早くも篝火の焚かれた陣の中は、クラトスが姿を見せるとしんと静まった。奥に座る皇帝の周りが隙もなく兵で固められていることがわかった。皇帝の脇にならんだ大将軍を筆頭とする将軍達の顔も厳しい。薪がパチパチとはぜる音のなか、クラトスは皇帝の側にいるはずの軍師にこの程度の傷で無様な姿を見せないようにと気をひきしめた。
「王都警備軍のクラトス・アウリオン、ご報告にあがりました」
「近くに寄れ」
 皇帝が手招きするのが見えた。
 皇帝と大将軍の面前に手をついてクラトスは、顔をしかめないようにと己へまた言い聞かせた。礼をとろうと手をついただけで、簡単な手当てをしただけの傷から再び流れ始めた血が脇へと伝わるのが感じられた。
 ここで無様な姿をお見せしてはならない。軍師が皇帝の背後に立っているのに気づいたが、すでに薄暮に覆われた陣のなかでその表情は伺えなかった。
 クラトスは事の次第を手早く皇帝に向かって報告すると、うめき声をあげないように唇を噛み、深く頭を下げた。陛下も軍師もこんなに手間取って、あきれていらっしゃるだろう。そう思うと、傷が激しくうずいた。
「クラトス准将、よくやった。さすがだ」
 いきなり皇帝から嬉しそうに褒め言葉がかけられた。
「クラトス、陛下をお守りしてくれて助かった。お前が一早く気づかなかったら、大騒ぎになっていたであろう。我が方が静かにしていれば、あやつらはもっと焦る。すばやく撃ち捕らえたことは見事であった」
 いつもは冷静なリーガル大将軍も明日は出陣というときの騒ぎが大事にならず、さすがに嬉しそうに彼を褒める。
「陛下、リーガル大将軍、お褒めの言葉、ありがとうございます。しかし、陣のお側近くまで敵を近づけまして申し訳ございませんでした」
「気にするな。お前の働きは十分だ。それより、怪我をしたようだが大丈夫か」
 皇帝が心配そうにに尋ねてきた。やはり、このような姿でご報告にあがるのではなかった。血に汚れた甲冑はどうにか拭いたものの、下の服まで取り替えている時間がなかった。クラトスはゆるく首をふった。深くえぐりとられた傷は指摘されると、鼓動に合わせるようにずきずきと激しく痛んだ。
「たいしたことはございません」
「そうか。それならよいが、顔色がよくない。この後始末はリーガルに任せて、すぐに手当てをしろ。明日は全軍ででる。お前は背後にて守りを固めるように。今夜はこれで下がれ。お前の働きは覚えておく」
「お言葉、ありがとうございます」
 クラトスはどうにか真っ直ぐに体を起こすと、改めて皇帝に礼をとった。軍師のつきささるような目線を背に感じながら、失態を見せる前にと陣を急いで出た。出血が止まらないためか、ひどい痛みのせいか、眩暈と息切れがした。彼の傷を心配して、すぐ外で待っていた部下達に抱えられながら、一言も言葉を発しなかった軍師のことを思い起こした。


 天幕の入り口が開き、静かに入ってくる人の影が床へと伸びた。
 傷の痛みでうつらうつらしていただけのクラトスは気配に目を覚ました。
「誰だ」
「静かに……。私だ」
「ユアン様、どうしてこちらに……」
 聞きたくてたまらなかった声がかすかに耳に届いた。クラトスは愛しい人の訪問に慌てて起き上がろうとしたが、熱っぽい体は痛みとだるさにいうことを利かなかった。
「起こしてしまったか。そのままでよい。じっとしていろ」
 静かに押さえた、しかし、命令しなれた声が彼の動きを封じた。
「そんなには長くいられない。寝顔を見にきたつもりだった。余計なことはするな」
 横たわっている簡易寝台まで近づいた軍師は、クラトスが起き上がる前に彼をそっと抱きしめた。かの人が持ってきた小さな灯火だけの薄暗がりのなかに、軍師の甘い香が広がった。
「心配させるな。お前が撃たれたと聞いて、本当に驚いた。それなのに、何を馬鹿みたいに報告にまで来る。すぐに傷の手当をして休んでいなくては駄目だろう。陛下の前でなければ小言の一つも言えたが、あそこではそうもいかないからな」
 軍師の長い髪がクラトスの顔の脇にひろがり、首筋をくすぐった。揺れる軍師の瞳がクラトスの目線と交わった。
「ユアン様……」
 横たわるクラトスの上に軽く覆いかぶさる軍師の声は不安に震えていた。この方がこんなに心配して下さっている。クラトスは優しく彼の頬にふれてくる軍師の指先を感じ、ほっと安らぎを覚えた。
「よいか。無理は禁物だ。今、私は陛下をお守りしなくてはならないのだから、私の心を乱さないでくれ」
 そう言いながら、愛する軍師は汗ばんだクラトスの額に軽く口付けを与え、ひんやりとした手がクラトスの顔を撫でた。
「すみません。私が油断したせいなのです。それなのに、わざわざ、いらしてくださるなんて……」
 クラトスはうっとりとつぶやくと、痛めていない方の手を大切な人の首へと回そうと伸ばした。
「こら、そんなことはするな。傷が開いたらどうする」
 軍師は伸ばされたクラトスの手を軽くとると、もう一度寝台へと戻した。
「それに謝る必要はまったくない。お前はよくやった。皇帝陛下もリーガル大将軍もたいそう感心していた。私もお前が怪我をしていなければ、褒めてやったところだ。だが、クラトス、大切なお前に何かがあったら、私はどうしたらいい。あの場でも、お前の追った傷が深いことはすぐにわかった。皇帝も驚いていた。血のにおいがした。私をこんなに心配させるほど、無茶をするな」
 軍師は驚くほど強い口調でクラトスをなじった。
「大丈夫です。それに口付けをくだされば、きっとすぐ良くなります」
 クラトスが甘えるように答えれば、すぐさま軍師から熱く長い口付けが与えられた。
「すっかり、ねだるの上手になったな。このまま、怪我しているお前をこんな場所だというのに離せなくてなってしまうではないか」
 軍師は口では文句を言いながら、ひどく嬉しそうにクラトスの顔に口付けを降らせた。
「ああ、ユアン様。お顔が拝見できただけで、もう治った気がいたします。もっと口付けをください……」
 いつもと同じ調子でクラトスの首筋に口付けが降りてくると、クラトスは軍師の首に片腕を廻した。クラトスの手をはがし、軍師は慌てて起き上がった。
「帝国の軍師をたぶらかすな。本当にお前は私を夢中にさせるな。だが、向こうも動き出した。明日にはぶつかる。私も陛下も明日には前線にたつ。陛下が出陣されたからには、帝国軍は負け戦はしない。だから、大人しく背後を守って待っていろ」
 軍師は大事な武官に惑う己に苦笑いをしながら、青年の顔を再度眺めた。愛しい武官の瞳は彼の長い口付けのせいか、傷から来る発熱のせいか、半ば潤んで、灯火に輝いていた。
 彼を信じ、熱く見上げる眼差しは決して失えない大切なものだった。さきほど、ふらつくクラトスの姿を見たとき、それを嫌というほど思い知らされた。あの血のにおいが別の記憶を呼び覚ました。再び、この手から愛しい者が擦り抜けたら、もう彼は生きていられないだろう。それほど苦しかった。
 クラトスがこの彼の想いに気づかず、無理をすることをほろ苦く思った。だが、愛する者は帝国に仕えるものであり、自らもまたその場にいれば同じことをしたに違いない。だから、責めることも、厳しく止めることも、彼から言えることではなかった。責務を全うした大事な者を癒してやることぐらいしか、できることはない。
「 今は力を使えないからこの程度のことしかできないが、許してくれ」
 いつものように魅惑的な笑顔を浮かべ、軍師はクラトスの傷ついた肩に優しく触れた。ユアンが目を閉じ、口の中で何かをつぶやくと、触れられた箇所からじんわりと温かいものが広がった。それと同時に、じくじくと熱をもっていた傷の痛みは消え、体が軽くなった。
「ああ、とても楽になりました。お手をわずらわせてすみません。ユアン様にお会いできただけただけで満足しなくてはいけませんのに、……」
「私こそ、お前を起こして悪かったな。よいか、決して無理だけはするな。王都に凱旋すれば、いくらでも時間はできる」
「そのお言葉、信じていいのですか」
「もちろんだ。では、休め」
 ユアンは再度、優しくクラトスの唇に口付けを与え、来たときと同じく素早く天幕を出て行った。クラトスは熱くなった唇を押さえ、目をつぶった。うずいていた傷の痛みはもう感じず、優しい軍師の声色が耳に残った。
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