唐桃

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初春の宵

 新月でどこが扉か、塀かもわからぬほどの闇のなかを、クラトスは己の歩数だけを頼りに進む。クラトスの返答を聞くやいなや、使いの侍女が小さな声でユアンからの指示を伝えた。
 長旬宮の出入りに召使達が利用する通用門の扉は開けてある、誰もいない、と言ってくれた。
 はたして、そこと思しき場所を手で押せば、小さな扉は音もなく開いた。ゆっくりと敷居を越え、クラトスは、彼の身分では軽々しくは足を踏み入れてはならない後宮へと入り込んだ。何も知らずに道に迷ったクラトスを案内する軍師の後を必死で追いかけたあの最初の出会い以来、本当に久しぶりだった。
 細い回廊の先にはこじんまりとした建物が連なり、アリシアに言われたようにぐるりと回ると中庭へと出た。月明かりに初春の芽吹いた細い柳の木が揺れ、その先におそらく豪華に装飾を施されているであろう朱塗りの扉が見えた。両脇に吊り下げられている灯篭からわずかにもれる光に扉の取っ手が深い影を落としていた。
 どこからともなく、甘い香が漂い、扉脇のぼんやりと明かりの漏れている部屋から、誰かが爪弾く楽の音が聞こえた。音を頼りに進めば、回廊から部屋へ続く扉に手をかけたところで、ぱたとその音は止んだ。
「ユアン様、お呼びでしょうか」
 扉の前で跪いた。部屋の中で、またたく灯火の前を過ぎる影が見え、少しの沈黙にクラトスはひやりとする。この夜更けにこの場所に彼がいることがすでに許されることではない。浮ついていた心がちくりと痛んだ。無我夢中で来てしまったが、本当に望まれているのだろうか。
「クラトスか、そのまま入ってきてくれ」
 部屋の中からは、会いたくて会いたくてたまらなかった人の小さな声がした。部屋への扉も、良く手入れされているらしく、何の抵抗もなく開いた。
 軍師の部屋は予想通りに品の良い漆塗りの家具が整然と置かれ、奥のただ一つ灯された明りの脇の長椅子にあぐらを組んで膝に楽器を乗せたままのユアンが座っていた。
「ユアン様、お待たせいたしました」
 クラトスは明かりに浮かび上がる軍師へ震える声で呼びかけた。しかし、逸る心とは裏腹に彼の体は痺れ、それ以上進むことができず、扉の先で膝をついた。
「手紙を読んでくれたのだな。お前に会いたかった。ここを尋ねてきてくれたからには、お前もそう思っていてくれたか」
 いつ聞いても心地良い声がうつむく彼の耳に届いた。その声音だけで、もう彼の鼓動ははねあがり、クラトスは声を出すこともできず、どうにかわずかに顔を上げると頷いた。
「そんな下ばかり見ていないで、私にお前の顔を見せて」
 ユアンの声にゆっくりとさらに顔を上げれば、ぼんやりと灯火の下に彼を魅了する美しい目が輝いていた。
「こちらに来て、確かにお前だとわからせておくれ」
 深く彼を捕らえる声に導かれ、夢の中のようにふわふわとした心持に漂い、ユアンへとにじりよれば、ユアンは膝の上の楽器を背後へと置き、手をクラトスの方へとすいと差し伸べた。
 ずっと触れたいと願っていたその美しく細い指が躊躇いもなく差し出され、目の前にあった。その事実だけでクラトスは眩暈を覚えるほどだった。
 膝をついたまま、宝物のようなその手を両手にのせ、己の額に押し頂くように触れ合わすとその手もわずかに汗に濡れ、かすかに震えていることを感じた。無骨な彼の手の上に同じ剣を振るうとは思えない美しく手入れされた手を握りこんだまま、クラトスは深く息を吐いた。
「そんな他人行儀なことはしないで、近くまで来てくれ」
 いつもよりかすかに高い声にユアンの高揚した気持ちが感じられ、信じられない面持ちでクラトスは再度崇拝する貴人を見上げた。まさか、この方も自分のことを想って、恋焦がれてくださったのだろうか。
 初春の風に瞬く灯が武官の顔に半分影を落としていた。全身から溢れ出る喜びと彼への敬愛をこめた仕草が心地よい。暗がりの中からぼうっと浮かび上がる真っ直ぐと鼻筋の通った整った面、切れ長で強い光を湛えた琥珀色の瞳、無造作にかかる濃い赤の前髪、彼に気を取られてかすかに開いた形のよい唇。
 どれも、この半年、ユアンの心に浮かび上がった青年の姿よりさらに魅力的に見えた。
 クラトスの半ば戸惑った、だが、熱っぽい眼差しを湛えた表情にユアンはもう待てなかった。この愛しい武官の存在をすぐ側で感じたかった。無邪気に放つ彼への敬慕の思いをその口から直接語らせ、己の耳に響かせたかった。
 まだ動こうとしないクラトスの手をじれったそうにユアンが引く。
「さあ、こちらにおいで。こんなに痩せて……。すまなかったな」
 クラトスは引かれるままに立ち上がると、いきなり、ユアンの胸へと抱えられた。はらりと首にかかるユアンの髪の感触が彼の鼓動を跳ね上げた。
 ユアンの香が彼の周りを包み、クラトスは陶然と体をユアンへと預ける。
「ああ、ユアン様、ずっと、お会いしたかった。ユアン様の香りがいたします」
 小声でつぶやくと、クラトスが想像していたよりずっとたくましい腕が彼の体を強く抱きしめた。クラトスは抱き寄せられるままにその胸に顔を寄せ、だが、彼を魅惑する眼差しが怖くて顔を上げられなかった。
「クラトス、お前は温かいな。こちらを見て」
 誘われ、顔を上げれば、ほんの間近に、毎夜夢見ていた青い宝玉の目が彼を見つめていた。ちらちらと瞬く灯火にその眼差しはいっそう煌めいて見え、王宮一の女官よりも美しいと褒め称えられる美貌を引き立てていた。クラトスは自らの鼓動が部屋中に響いているような錯覚を覚える。
「私もお前に会いたかった。それなのに、自らを偽ってお前を突き放した。こんなにお前を苦しめているとは思わなかった。どれだけ私自身が苦しいかも気づかなかった」
「ユアン様、ユアン様、……」
 彼を呼ぶ青年の掠れた声に心の奥がしびれるようだった。クラトスはもう言葉を紡げないようで、ユアンの目を下から見あげながら、口もとは震えているだけだった。
 ああ、愛しい。
 ユアンは満足感と高揚感がいりまじった久しぶりの感情が冷え切った心の奥底をじんわりと温める感触を味わった。
 細い指がクラトスの顔の輪郭をなぞるように額からおり、彼の唇に触れた。目を閉じ、そのくすぐったいような、しかし、体中を痺れさす感触を味わう。確かめるように唇をなぞるその指が離れる寂しさにわずかに口を開くと、優しく、ユアンが口を重ねてきた。
 初めて交わした口付けは想像していたよりもずっと甘く、そして、今まで経験したことがないだけ、クラトスを混乱させた。柔らかくほんの少し湿ったユアンの唇の羽のような感触がクラトスの体を痺れさせ、手は何かを掴んでにいないと溺れてしまうかのように、ユアンの服を握り締めた。
 かすかに触れていたはずの唇はいつの間にか強く押し付けられ、歯列を擽っていた舌は口内に忍びこみ、好き勝手に彼を翻弄する。
 ユアンの巧みな導きに、クラトスの体はすっかり力が抜け、意図せず息は荒くなった。望んでやまなかった人の胸の中は、互いの熱気と汗とかの人の香でむせかえっている。
 強く押さえつけられていた頭はいつの間にやらユアンの肩に預けられ、かの人は優しくクラトスの髪を手で梳いている。
「これは、夢ではないですよね」
 見れば消えてしまうような気がして、まだ荒く息をはずませながらクラトスはユアンの胴衣をしっかりと握り締め、うつむいたままで尋ねた。
「そうであった方がよいか」
「いいえ。ユアン様、でも、夢なら覚めないで欲しい。ずっと、……ずっと」
「ずっと、何だ」
「申し訳ありません。ユアン様にもう調査はよいと言われてからも、夜毎、あなた様をこの胸に思い浮かべていました。夢でいいから二人きりでお会いしたいと願っていました。だから、これが夢だったら、このまま目覚めずにいたい」
 クラトスはそれ以上、言葉を続けることができなかった。ユアンが再び彼の口を奪った。さきほどと違い、何の躊躇もなく差し込まれた舌はクラトスのまだ愛撫に慣れない舌を誘い出し、押さえつけられた頭は逃げることを許されなかった。
 クラトスは求められるままに夢中で答えた。
「クラトス、ずっと後悔していた。なぜ、自らの気持ちに素直にならなかったのだろうと苦しかった。今日もお前に断られるのではないかと恐かった」
「断る。私が何を断れるとおっしゃるのです。ユアン様の望まれることなら、何でも……」
「そうか。それなら、側にいてくれ」
 二人は繰り返し口付けを交わし、今まで語ることのなかった互いの思いを時が過ぎるのも忘れて伝え合った。遠くで真夜中を知らせる梵鐘の音が響き、クラトスは慌ててユアンの胸の中から離れようとした。
「申し訳ありません。このように長くお部屋にいるなど……」
 ユアンの腕が再度クラトスを引き止めた。
「もっと、お前の声を聞いていたい」
「ユアン様……」
 困ったように己の名前を呼ぶ恋人の額に軽く口付けを与えた。
「クラトス、わかっている。明日も互いに早いからな。だが、お前と出会ってもう何年たっただろう。すっかり、時間を無駄にした。無駄にした分、取り返したい。すぐに来てくれるね」
「呼んでいただけましたなら、いつでも参ります」
 クラトスは体を起こすと、真っ直ぐとユアンの目を見つめて答えた。


 いったん、互いの気持ちが分かれば、今までの空白を埋めるためにと逢引を重ねた。たいていは遅くまで政務が終わらないユアンの都合に合わせ、あの小さな侍女がクラトスを呼びにきた。だが、皇帝の出陣に向かって、互いに忙しい身の上だけに、思うようには時間を取れないまま、季節は春へと向かっていった。
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