唐桃

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心模様

 ユアンは長春宮の執務室の中をぐるぐると歩き回っていた。何をしているのだ。まるで、恋を始めて知った子供のようではないか。自らの姿に苦笑がこぼれた。
 半年振りにクラトスを見た。自らの気持ちはもう分かっていた。だが、クラトスにそれを押し付けたくはなかった。自らの地位とクラトスの関係を思えば、強要するも同じことだ。だから、今日の会議にも出席するかどうか、悩んだ。
 しかし、何を嗅ぎつけたのか、リーガルはともかく、ゼロスからも強く出席の要請があった。ユアンを尋ねてやってきた筆頭書記官は、帰りがけに、クラトス准将がずっと調子が悪いそうです、元気付けてやってください、といかにも思わせぶりに囁いた。
 その言葉に不安を覚えた。ひょっとして最後にかけた言葉がやはりクラトスを傷つけたのだろうか。まさかとは思うが、クラトスはまだ自分に未練を持っていてくれるのだろうか。アリシアを通じてリーガルから聞き出したときも元気がないと確かに言っていた。
 何が起きたのだろう。自分のせいだろうか。結局、ユアンはクラトスの顔を見たい。彼の姿を己の目で確認したいという欲求を抑えることができなかった。
 この半年、互いに顔を合わせたことはなかった。宮殿内ですれ違いそうになれば、クラトスの気を感じて、うまくやり過ごしていた。きっと、あの青年武官は彼のことをいい思い出として普通に過ごしているに違いない。私もそうだ。マーテルを失って以来、久しぶりに心を弾ませてもらった。そんなつもりでいた。
 思い上がりも甚だしかった。会議の前日になると、妙に胸苦しかった。久しぶりの同じ席というだけで、わくわくしながら、そのくせ、クラトスがただ淡々と自分に目線もくれない姿を想像するだけで、やるせない気分になった。自ら、突き放したにも関わらず、都合よく恋焦がれていて欲しかった。調子が悪いなら、自分のせいであって欲しかった。
 だから、あの会議が行われる広間に足を踏み入れようと扉の前に立つと同時に、以前と同じ彼を待ち望む清々しい気を感じて、なんとも言えない安堵を覚えた。
 部屋に入って、クラトスが彼の方をじっと見て身動きもしなかったあのとき、思わず、その愛しい姿に、予想していた通りの初々しい反応に微笑んだ。もちろん、クラトスは彼の笑みを認めた瞬間、泣きそうに顔をゆがめ、ついでじっと食い入るように彼を見つめた。
 その後も、何度か、クラトスの視線を感じた。だが、あえて無視をした。あのような公の席であれ以上の反応を見せられては、周りにも気づかれてしまう。他の者はともかく、まだ、ミトスには知られたくなかった。
 少なくとも、ゼロスは気づいていたはずだ。何度かクラトスの視線を感じた後、ゼロスがこちらを見て、にこりと笑った。ミトスがその瞬間不愉快そうに筆頭書記官の名前を呼んだことにほっとした。
 あれは、ゼロスなりの気遣いに違いない。さすがにクラトスもその後は視線を寄越しはしなかった。
 大丈夫だった。きっと、間に合った。まだ、クラトスはこちらを見てくれている。
 そう考えるだけど、心が躍りあがり、筆を取ろうとする手が震えた。
「すまないが、アリシア、こちらの手紙をクラトス・アウリオン准将に渡してくれないか。そして、返事をもらってきておくれ」
「ユアン様、承りました。お返事がいただけなかったときは、いかがいたしましょう」
「返事は、……。返事は必ずくれるはずだ。そうしたら、これから言うとおりに答えておくれ」
 それこそ、マーテルが存命中は幼い少女だった女官は彼の躊躇いに気付いたようで、少し首を傾げた。だが、彼から伝言の内容を聞くとその年には似合わず落ち着いた様子で頷いた。
「クラトス様がずっとお元気なさそうでしたので、心配しておりました。これで、安心いたしました」
「なんだ。まるでクラトスの親のような口をきく」
「ユアン様こそ、最近のクラトス様のお姿を見ていないから、こんなに平気でつれなくされることがおできになったのです。クラトス様が寂しそうにユアン様の後姿を探していらっしゃるところをご覧になっていらっしゃらないから、ユアン様は冷たいお仕打ちができたのです。クラトス様がどれだけやつれていらっしゃったか、ご存知ないでしょう。私、もう心配で、心配で」
「わかったよ。アリシア。クラトスのことを心配してくれてありがとう。お前は会ったときから、クラトスの崇拝者だからな」
「あら、ユアン様にはかないません」
「アリシア、誰からそんな口の利き方を教えてもらったのだい。リーガルか。それともゼロスか。きっと、リーガルだな。お前が大将軍と会っていることは耳にしているぞ。二人で私をからかって楽しいかい」
「ゼロス様から何を御伺いになったのでしょう。あの方はすぐに大げさにおっしゃいますから。私、ユアン様がおっしゃっているようなことは知りません。でも、ユアン様がお元気そうになられて、リーガル様もゼロス様も私も側に仕える者はみなホッとしております」
「お前達の心遣いにはいつも感謝しているよ。さあ、急いで、クラトスの執務室へこれを携えて行ってきてくれないか」


 夢なら覚めないで欲しい。
 クラトスはさきほどの会議の内容などほとんど頭に残っていなかった。見るも艶やかな軍師の笑顔だけが脳裏に繰り返し現れた。
 確かに笑いかけて下さった。決して、愛想をつかされていたわけではないのだ。今までお会いできなかったのは、ただ、お忙しいからだったのだ。会議はまたある。いつなのかは分からないが、また、お会いできる。それまでは、あの笑顔を思い出していればよい。だけど、お会いしたい。
 会議で下された一連の指示に従い、彼の部隊の現在の状況をまとめあげなくてはならないのに、考えることと言えば、さきほどの軍師の姿ばかりだった。
 皇帝に話しかけていた端正な横顔。リーガル大将軍に質問をするときの濃い青い目。ゼロス筆頭書記官に答えたときの深い声。陛下の問いに地図を指し示していた細く形良い指先。頷くときに揺れていた長く美しい髪。
 今までの出会いでも彼を魅了して止まなかった軍師の様々な仕草を思い出すだけでたちどころに時間は過ぎ去ってしまった。日が落ちるのが早いこの時期のこと、部下が灯をつけに部屋へと入ってきて、慌ててクラトスは筆を握り締めた。
 しばらくすると、また執務室の扉が叩かれた。おそらく、外で待っている副官や他の下士官がしびれを切らしたのだろう。今日はもう仕事にならないから、帰ってもらったほうがよいだろう。
 自ら立ち上がり、扉を開けると、目の前にアリシアが立っていた。
「クラトス様、お久しぶりでございます」
 以前とかわらない清楚な笑顔で頭を下げるユアンの侍女にしばらく返答を返すことができなかった。
 なぜ、彼女がここにいるのだろう。ユアン様からの伝言でもあるのだろうか。期待と不安がクラトスの頭の中を駆け巡った。
「久しぶりだね。えっと、元気そうだね。さあ、こちらに入って座ってくれ」
 クラトスはいつものとおりに彼女に丁寧に椅子を引いた。
「ありがとうございます。どうぞ、お気遣いなくお願いいたします。クラトス様こそいかがでいらっしゃいますか。このところ、お元気がないとゼロス様とリーガル様から御伺いしておりました」
「いや、大丈夫だよ。……お二人にはいつもご迷惑をおかけしているから、きっとそのせいだ」
 くちごもるクラトスの姿にアリシアはにっこりと笑いかけた。ゼロス様がおっしゃったとおり、クラトス様のお心の内はとてもわかりやすい。あまり表情がなさそうだけど、分かってしまえば王宮にいらっしゃる他の貴族の子弟とは異なり、お優しくて、表裏がないですもの。嘘をおつきになれないのね。リーガル様もそうだわ。
「ミトス陛下のご出陣の準備で、ユアン様も周りの皆様もたいそうお忙しいですものね。どうぞ、無理をなさらないでくださいませ」
「ああ、ありがとう」
 軍師の名前を聞いただけでうっすらと頬を染める武官の姿に、ゼロス様にこれ以上からかわれないようにお願いしなくては、と、アリシアはそれこそ母親のようなことを考えた。
「お忙しいのに、無駄なおしゃべりをして申し訳ありません。ユアン様からクラトス様へお文を渡すようにと申し付かっております。どうぞ、すぐお読みになってお返事をいただけませんでしょうか。私、あちらの控えの間で待っております」
 アリシアが差し出す上等な漉き紙の封書を、クラトスはまるでふれたら消えてしまう物とでも思ったかのように、差し出した手を途中で止めた。
「ユアン様から私へ……」
 クラトスは何かの間違いでもあってはいけないように、繰り返した。アリシアは励ますように笑みを浮かべながら、その言葉にうなずき、差し出されたまま空中に止まっている手の上にそっと乗せた。
「お返事をお待ちしております」
 使いの少女はゆっくりと頭を下げると、軍師を思わせる優雅な物腰で立ち上がり、そのまま部屋の外へと静かに出て行った。クラトスはまじまじと封書を眺めているだけで、アリシアが外へ出て行ったこともしばらく気づかなかった。
 その手紙からかすかに漂う香にかすかな期待と、勘違いしてはならないという戒めが交代で心のなかに浮かんだ。すぐ部屋の外に、アリシアが使いとして待っている。ユアン様と出会えたのも、彼女のおかげだ。
 クラトスは、開ける前に封書を胸に押し当て、あの少女が使いとして来たからにはよい便りであるようにと祈った。内容を読んでがっかりする前にそれくらいの夢は見たかった。
 また、ユアン様から何か例の件でご指示をいただくのだろうか。それとも、今度の出陣でご注意されたいことでもあるのだろうか。クラトスはこの数ヶ月の自軍の働きを思い返し、今日の会議では陛下もその結果には満足な意を表してくださったことに安堵した。ご叱責ではないはずだ。
 もう日も落ちる。これ以上軍師の使者を待たすわけにも行かない。クラトスは震える手で封書を開いた。
 中には、何回も書類の上で見たことのある流麗な文字で二行だけ記されていた。
「今宵、長春宮で会いたい。
 待っている」
 目を疑った。何度も読み返した。口の中がからからに乾いた。期待してはならない。何か御用がおありなのだ。己に言い聞かせながら、それでも、今日の御前会議で、こちらを見つめながら微笑みかけてくれた軍師の姿が胸を過ぎった。
 軍師の用事が何であろうと、そもそもあの方にお目にかかれる機会を断ることは、クラトスにできるはずもなかった。お側で二人で言葉が交わせるなら、何が起きても伺う以外に彼に選択肢はない。
「もちろん、お受けいたします」
 少女を招き入れて、彼がはっきりと告げると、軍師の使いは自分のことのように嬉しそうな表情を見せた。
「クラトス様、ユアン様からのお言伝です」
 一歩近づいた少女はクラトスの耳に小さな声で伝言を囁いた。
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