唐桃

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失意

 クラトスはあの日からしばらくは何も手につかなかった。ぼんやりと言葉少なく、青ざめて考え込んでいる彼を見て、侍従たちがひどく心配した。だが、その理由など回りの者には決して語ることはできない。誰にも言えずにいると、さらに苦しかった。こんなにも、あの青い髪の貴人に心を囚われていたことを、会えなくなったことで思い知らされた。
 調査は行き詰っていた。確かにこの大事なときに、両方の仕事をこなすには自分は力不足だった。だから、軍師がおっしゃったとおり、あの方に愛想を付かされたのではなくて、帝国のためを考えれば、これは当然の成り行きだ。何度も自らに言い聞かせた。
 だが、小部屋に入ったとたんに、待っている彼に笑いかける軍師の顔が、奥まった庭にあの軽い足取りで現れる優雅な立ち姿が、回廊脇で彼のどぎまぎした姿にこぼすかすかな笑い声が目の前をちらついた。
 書類に軍師の署名があるのを見れば、最後に会ったあのときの困惑した顔が脳裏に浮かんだ。きっと、期待はずれな者だと思われたに違いない。そう思うと、今、この瞬間にこの執務室にいることも申し訳なく、いたたまれない思いに叫び出しそうになった。
 家の者はもとより、部下達もさすがにクラトスの変化に気づき、休むようにと勧めてくれた。だが、軍師が望んだのは、彼が帝国のためにその職務をまっとうすることだった。だから、仕事を休むなどありえないことだ。クラトスは周囲の者たちの心配も他所に、朝早くから夜遅くまで、仕事に没頭した。
 もう、あの庭には出向かなかった。一度だけ、せめても心の慰めにと訪れたが、一人だけの寂しさに却って打ちのめされるだけだった。一旦、声を交わし、近くで話す幸せを知れば、会えなくなったことの苦しさは思い出だけでは癒せなかった。
 ただ、すべてが元通りに戻っただけなのだ。いや、度々会っていただいたときだって、あの方にとっては、宮中に何千といるそこらを歩いている武官の一人にすぎなかったのだ。
 あんなに優しく声をかけてくださるから、今まで以上に笑顔を見せてくださったから、二人だけで会っていたから、馬鹿みたいに勘違いした。あの方も自分を少しは好いてくださっていると身の程も知らずに思い上がった。
 こういうときは、女だったならどんなに楽だろうと思った。女だったら、めそめそ泣いても誰も笑わないだろう。だが、彼はすでに一軍の将だ。帝国の臣だ。個人の涙など、職務の上では邪魔なだけだ。
 もういつだか思いだせないほど幼い頃に、父親に帝国の武官たる者、涙してよいのは死ぬときだけだといい聞かされて以来、泣いたことはなかった。感情に身を任せてはならないと育てられてきた。だが、それが苦しいことだと今になって気づかされた。
 夜は無理やり眠るために、以前はさして飲まなかった酒を口にするようになった。だが、軍師と会っていたころには、ほんの一口で気持ちよくなれたはずの液体は、胃をこがし、頭痛を引き起こすだけだった。たとえ眠れたとしても、数刻もすれば、一人夜の静けさの中で目を覚ました。
 いったん、目が冴えてしまうと、寝付けなかった。明日は遠征なのだから、体を休ませなくてはいけないと理性が囁いても、心はそれを拒否した。
 見てはならないと思いながらも、一人で眠れずに夜更けの部屋にいれば、以前賜った杏の花びらを取り出した。
 白く艶やかな花はすっかり乾燥し、あちらが透けて見えるもろいものとなっていた。幾度となく、その色褪せた思い出を握りつぶそうとし、結局、胸にそれをおしあてたまま、軍師の姿を、あの声を、風に漂った香を思い起こした。
 あの方にとっては、二人で会ったときなど、この花のように色褪せ、もろく崩れるように消え去っているだろう。しかし、クラトスにとっては、決して消えない思い出だ。忘れ去ることなどとうてい出来ない。


 誰にも何も語らないままやつれたクラトスの姿に、部下だけではなく、周囲の将校達も気づき始めた。
「クラトス、このところ、えらく顔色が悪いがどうしたのだ。そんなに忙しいか」
 打合せで訪れたゼロスの執務室にいたリーガル大将軍までもが、見かねて声をかけた。その声に、返事もせずに首を横にふり、部屋を出ようとするクラトスをゼロスがとどめた。
「おい、クラトス。話はすんだが、ちょっと待て。確かにさっきから上の空だぜ。一体何があったんだ。お前の部隊は陛下のご出陣ではしっかり働いてもらわないとまずいからな。俺様達にできることなら、聞いてやるぞ」
「ゼロス様、リーガル様、午後には王都を出ねばなりませんので、私はこれで退席させていただければ、……。今のところ、お二人のお手をわずらわせる必要はございません」
 いっそう、顔を強張らせたクラトスはゼロスが止める手を振り切って、退出していった。
「一体、どうしんだ。クラトスのやつ、このところ、すっかり腑抜け状態だな。あれじゃ、街道の制圧に時間がかかるぜ。おっさん、何か知っているか」
「いや、とりあえず、あれの指揮する部隊に何か問題があったという報告はあがっていない。せかしている割に人員が足りないということか。フォシテスのところからまだ動かせるがな。ゼロス、どうだ」
「おっさん、そんなことでクラトスが弱るかよ。これは、俺様がみるとこ、別の理由だな。なあ、このところおっさんのところに直々遊びにいらっしゃっているあのお嬢様が何か言っていなかったか」
「ゼロス、アリシアはユアン様の使いできているのだ。遊びに来ているわけではない。大体、どうしてクラトスのことをアリシアが知っていなければならないのだ」
 リーガルがいぶかしそうにゼロスに尋ね、それから、やや不安そうな面持ちになった。
 ゼロスは自分達の感情にはとことん鈍い将軍たちに肩をすくめた。やれやれ、俺様が面倒みてやんなきゃ、この二人ときたら、どちらもどっちだな。
「おっさん、何も分かっていないな。というか、心配するなって。あのお嬢様はクラトスに手を出たりしないよ」
「ゼロス、何を言っている。アリシアがそんなことをしないことは分かっている。確かに先週アリシアもクラトスのことを心配そうに尋ねてきたが、まさか、クラトスがアリシアに……その……」
 リーガルは再び不安そうに言葉をとぎらせた。
「おっさん、あんたも分かっていないねぇ。アリシアちゃんもかわいそう。言っとくけど、クラトスはアリシアちゃんに気はない。アリシアちゃんはクラトスのことを単純に気にかけているだけなの。だけど、そうか、アリシアちゃんがクラトスを心配してくれているということは、まだ、あいつもそんながっくりすることはないっていうわけだ。脈はあるかな」
「一体、お前は何を言いたいのだ」
「さてと、どういたしましょうかね」
「ゼロス、何の話なのだ。だが、クラトスが調子悪いのはまずいな。あれは役立つ男だし、今回は最後尾をしっかりと守ってもらわねばならないしな」
「おっさん、まだわかんないの。アリシアちゃんにクラトスの様子を聞かれたとき、まさか元気だなんて言ってないよな」
「ああ、ちょっと調子が悪そうだとは答えた……」
「軍師様は陛下とあんたと俺様の打ち合せには顔を出すが、このところ、ずっと全体会議に顔を出されていないだろう」
「あの方はいつもお忙しいからな」
「はあ、避けていらっしゃるんだよ。って言ってもわからないか。おっさん、アリシアちゃんに愛想つかされる前に求婚した方が身のためだぜ」
「何を言っているのだ。私とアリシアはお前が言うようなその……」
 リーガルはゼロスの直裁な指摘に絶句した。
「あのユアン様があんたのところの使いにわざわざアリシアちゃんを送ってあげていることに、気づいていないわけなの」
「ゼロス、今はその話をしているのではなく、クラトスのことだろう。そう、回りくどく言わずに教えろ」
「ま、あんた達のことは俺様が口出すまでもないか。ねぇ、俺様が前に言ったこと覚えてる。クラトス、軍師様との間に何かあったんだよ。何せ、最近、俺様がクラトスの書類が出ていますと言っても、ユアン様、しれっと反応寄越さなくなっていたものな。だけど、アリシアちゃんを通して、あんたから様子を聞くくらいは、気にしているわけだ」
「ユアン様が……、クラトスと何を」
「何だったんでしょうね。だが、どうにかしないと、クラトスが倒れるな。俺様、あいつのことはちょいと気に入っているから、助けてやりたいんだけど……。
 そうだ。なあ、リーガル大将軍様。皇帝陛下ご出陣の期間までもう間近だ。あんたが言っていた全将を集めた御前会議を早めに開催できないかな」
「そんなことが何かの役に立つのか。私とすれば、ご出陣前になるべく早く一度意志を確かめておきたいから、それならすぐに陛下にお願い申し上げるぞ」
「でさ、必ず、軍師様のご出席を賜ってもらいたいんだけど」
「ユアン様がこんな大切な会議にご欠席されることはありえないだろう。今回も陛下と一緒にご出陣されると前々からおっしゃっていた」
「これでばっちり。俺様の方で出席する将校達は決めていいよな。あんたには確認するからさ。なるべく早くに陛下に了承をとるように頼んだぜ」
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