唐桃

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私室(三)

 ユアンはまたため息をつく。
 長春宮までの幾重にも折れ曲がった回廊を冷たく体に突き刺さるような夜風に吹かれ、重い気分で歩く。行く先が見えず、思いもかけないところに曲がり角のある回廊は今の彼の気分そのものだった。
 ミトスとのやりとりは、最近の二人の関係がさらに難しくなってきたことをはっきりさせた。出会った時からミトスを尊敬している。まるで、長きにわたって暮らしてきた家族のような愛情を覚える。だが、それは決して相手が望む感情ではなかった。
 たまに、ミトスがまるで約束を破ったかのように彼を詰ることがつらい。記憶の奥底までさらっても、ミトスが彼に求めていることに答えた覚えがなかった。
 マーテルがいるときは、彼女が間に入ってくれて、それは穏やかに宥めてくれていた。マーテルに会いたい。あのおっとりとした微笑をもう一度だけ見たい。彼女の温かい手に触れれば、どんな憂鬱なできごとも消え去った。柔らかい微笑みに疲れた心はたちどころに癒された。だが、それもとうに叶わないこととなってしまった。
 ところどころに、冷たい木枯らしに揺れている灯篭の火が、いっそう一人で歩く淋しさをあおった。ちらちらと揺れるぼんやりとした赤い色を見ると、青年の面影が脳裏に浮かんだ。クラトス。彼の胸の中にすっかり馴染んだ名前がこだました。
 あの青年武官が待っている場所へと行くのは楽しかった。遠くからでもあの青年の気配が感じられたものだ。彼をただ待ち焦がれている武官の澄んだ泉のような新鮮な気が溢れていた。そのすがすがしい気を体に纏わせながら、近づいていくのは浮き浮きした。
 彼の姿がみえた途端に煌めく青年の思い。しかし、その思いを心に押し込めて礼をする仕草。彼を見上げるときに、隠そうとしながらもちらりとこぼしてしまう思慕。
 どれもが、久しぶりに彼の心を騒がせた。あのときだけは、心に澱のように積み重なる難事を忘れることができた。会えると思うと、その日が待ち遠しかった。
 そうだ。ミトスに指摘されたとおりだな、と苦笑した。恋していると認めよう。しかも重症だ。全く気づかない内に心を奪われてしまった。
 だが、違うこともある。相手は侍女ではない。ミトス、お前が心配することはない。恋と気づく前に終わってしまった。自分の心の内をよく理解する前に片をつけてしまった。今頃、あの若い武官もそれこそかわいらしい侍女にでも目を向けていることだろう。


 また、ひとしきり強く吹き付けてきた木枯らしは、身も心も凍らせるようだった。
 冷え切った体で長春宮の部屋の扉を開ける。断りを入れていたから、部屋は暖められてはいたが、誰も待っている者はいなかった。
 ミトスの部屋が以前の持ち主のときから何も変えられないまま使われているのと違い、この部屋の中は彼の趣味で整えられていた。
 落ち着いた紫檀の卓、螺鈿の虹色で彩られた花が散りばめられた箪笥、星が映るだけ磨かれた黒漆の執務机、明け方の空のような透明な青い花器。どれも、マーテルが存命のときに、二人で選んだ思い出の品々をそのまま利用していた。
 だが、どんなに部屋を以前と同じくしても、マーテルと共に慶寿宮にいたときとは異なり、整っているだけで、温かみがなかった。
 青い花器に生けられた夜目にも鮮やかな白い菊や紫の季節はずれのキキョウは、マーテルの手にかかれば野に息づいているかのようだったが、何が違うのか、まるで命のない作り物にしか見えなかった。螺鈿細工の花たちは、灯火に煌き、いつでも歌っているように軽やかに見えていたのに、今は目に眩しいだけの物に過ぎなかった。伝言でもないかと近寄った執務机は、彼の青い髪をひっそりと映すだけだった。
 置いてある家具さえも愛してくれた人を失ったことで、息を潜めているかのように静まっており、他人の物のようだった。
 ミトスも欲していたが、彼も温もりが必要だった。だが、それはミトスと彼の間にはありえなかった。ミトスはまだ納得していなかったが、彼はとうに理解していた。体をつなげても、それは後宮の女達を抱くのと同じだった。体は熱くなっても、何の絆も、何の温かさも生み出されなかった。
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