唐桃

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密会

 頼まれた調査はほとんど手がかりがなかった。
 クラトスは何も探り出せないことを申し訳なく思いながら、一方で、この調査の難しさに秘かに感謝をしていた。調査が続く間はユアン様とふたりきりで会うことができる。例え、何もみつかりませんと一言伝えるためでも、二人きりで数分言葉が交わせることが、クラトスにとっては大きな喜びだ。
 人目を憚る話だけに、直前までいつ、どこで会うのかわからなかった。ユアンが心を許している侍女に持たせる手紙で指定される時間と場所に赴く。そこは、例の庭だったり、マーテルの御霊屋だったり、後宮脇の見捨てられたような空き部屋だったりした。
 クラトスにとっては、指定された場所でユアンを待つわずかな時間は胸の高鳴る幸せのときだった。今日はどんな表情でいらっしゃるのだろう、何と声を掛けてくださるだろう、そんなたわいのないことを考えているだけで、あっという間に時が過ぎた。
 気持ちの良い乾燥した秋風に小枝がゆらりと揺れ、奥底まで透明な青空が庭の木々の向こうに見えた。この青色はユアン様の目に比べれば、透けるように薄い。クラトスはそんなことを思いながら、指定された小庭へと歩いていた。
 ユアンの侍女のアリシアが、今朝、息を切らせながら執務室まで尋ねてきてくれた。すっかり親しくなったかわいらしい侍女は彼の日頃の予定をいつの間にか知っていて、彼が出る前にと文を運んできてくれた。
「アリシア、そんなに急いで来てくれなくても良かったのに。いつも気を使ってくれて、ありがとう」
 クラトスが言えば、小柄な侍女はにっこりと笑って、それから首を振った。
「クラトス様、ありがとうございます。でも、お礼なんて言わないで下さい。クラトス様のためなら、いつでも飛んできますわ。それに、ユアン様もクラトス様に連絡がつかなかったとお聞きになれば、がっかりされます」
「確かにお忙しいユアン様のご都合を狂わせては申し訳ないだろうな」
「クラトス様、そういう意味ではございません。ユアン様はあなた様にお会いすることをいつでも楽しみにしていらっしゃいますもの」
 侍女の言葉は、クラトスの心の奥底の小さな願いに希望の灯をともしてくれる。軍師の側にいつもいる彼女が言うのだから、本当に楽しみにして下さっているのだ。結果を聞くために義務だけで会って下さるのではない。彼に会いたいと少しは思って下さっている。そう考えられる。
「そう言ってくれると、何も報告することがなくても少し安心できるな」
 クラトスがかすかに笑みを浮かべて答えると、侍女は彼を力づけるように頷いた。
「ユアン様はクラトス様とお会いになられた後はとてもご機嫌なのですよ。マーテル様を失われてから、本当にお元気がなかったので、私どもお側に仕えている者もほっとしているんです。だから、クラトス様、たくさんお話ししてさしあげて、もっともっと、元気づけてあげて下さいな」
「私でよろしければ、喜んでそうするよ」
 アリシアが今まで見知っていた貴族の息子達とは異なり、クラトスはいつでも穏やかで取り繕わない。今日も優しい青年武官は正直に自分の感情を見せて、いかにも幸せそうに返事をした。
 アリシアの言葉を額面通りに受け取るほど、クラトスはずうずうしくはなかった。だが、少なくとも、憧れの方が自分と会うことを面倒だとは思っていらっしゃらないのだ。そう思うだけで、今日の秋空のように心が晴々とした。
 小庭に着くと、珍しく軍師が先に木の椅子に座っていた。クラトスの足音に気づいたのだろう。庭の先にある潅木を見ていたかと思うと、ふんわりと秋の日に煌めく髪をひらめかせて、こちらを見た。
「遅くなってすみません。お待たせいたしましたか」
 駆け寄ろうとするクラトスに向って、軍師が立ち上がった。
「そんなに慌てて来なくてもよい。さきほどまで外に出ていたのであろう。アリシアから聞いた。私のために、そこまで無理して戻らなくとも
よいのだ」
「いえ、無理などしておりません」
 クラトスに近寄ってきた軍師は、その答えに少し首を傾げた。
「そうだろうか。顔が疲れているぞ。何せ、数里先の村まで往復したことは聞いているからな。それに、お前は休まずにこちらに来ただろう。だから、アリシアに頼んで、別の部屋にお茶を運ばせておいた。そちらに行こう」
「そのようなお気づかいは……」
「いいから、こちらに来い」
 軍師は躊躇って立ち止まるクラトスの背を手で軽く押した。
「え……」
「ついて来い。大丈夫だ。他の者は近づかないように手配しておいた。今日の見回りのことも教えてくれ」
 クラトスは嬉しそうに笑うユアンの笑顔をまぶしそうに見つめ、朝方のアリシアの言葉を思い返した。私と会うことを楽しみにしてくださっている。そう思い込んでしまいそうだった。


 長春宮で筆をとっていたユアンは、ゆらりと風に揺れる灯篭を眺めて長いため息を吐き出した。懸案事項が山積みとなり、朝から休む間もなかった。上げられてくる報告はどれも思わしくなく、皇帝が出した指示は徹底されていなかった。
 後半年もすれば、都から皇帝は軍を率いて出る。準備期間は後わずかだ。どこに梃入れすればいいのかと、ユアンは書類を並べなおし、だが、良い解決案は浮かび上がらなかった。
 一息つこうと立ち上がると、思い出した。今日は夕刻にクラトスと会う約束をしていた。そう分かったとたんに憂鬱な気分はなくなり、疲れが消えた。いつの間にか彼と会うことを楽しみになっている自分に気づいた。
 慣れてくると、クラトスはなかなかおもしろい話し相手だった。そこらの取り澄ました貴族よりも、民に近いところにいただけ、帝国のことを理解し、深く考えている。気の利かない田舎貴族とばかり思っていたが、真面目な気性が口を重くさせているだけで、真っ直ぐで素直な性格を知れば、その率直な物言いは好感がもてた。
 依頼された調査に手間取り、探索がうまくいかないことをしきりにクラトスは詫びていたが、彼はちっとも気にならなかった。後宮でことを起こした輩だ。相当な頭の持ち主がそれなりの準備をしなくては得られない悲惨な結果だった。当然、今となっては痕跡もほぼ残っていないだろう。だが、マーテルの死の真相を確かめ、自らの責務として、同じことが皇帝陛下に降りかからないようにしなくてはならない。
 いっそ、真相がわからなければ、このまま、ずっとクラトスと会うことができるかもしれない。心に浮かぶその思いにユアンは狼狽した。
 マーテルを失ってから、身近に置くほど近しい者ができたことはなかった。最初の頃は、一人寝の慰めにと後宮の女達を呼んだこともあったが、虚しさが残るだけだった。最近は、わずらわしいので、身の回りの世話には、妙齢の貴族の姫たちがあがって来ないようにとさりげなく断ってさえいた。
 例によって、刻限よりやや遅れて、ユアンは待ち合わせている後宮の裏手にある今は使われていない侍従の待合室へと向かった。今日はどんな顔をしているだろう。想像すると、ふと笑みがこぼれた。朴訥な武官はどんなわずかな手がかりでも得られれば、ひどく嬉しそうに彼の顔を見上げ、逆に、何も進展がないと、固く無表情に彼を待っていた。その顔さえ見れば、聞かなくても大体のことは分かるくらいだった。
 夕日が差し込む小部屋は暖かく、彼を待っているはずのクラトスの姿が見えなかった。いつも、先に来ているのにといぶかしく思いながら、部屋へ入った。先客は部屋の隅に放置されたままの埃だらけの脇机に寄りかかるように居眠りをしていた。
 薔薇色の柔らかい光が静かに眠るクラトスの顔にあたり、このたくましい武官が思いのほか線の細い整った容貌であることを気づかせた。彼の女官が、王宮の侍女たちの間で噂になっていると教えてくれたが、なるほど、これなら、女性たちに人気があるかもしれない。以前、ゼロスも褒めていたが、確かに少し身の回りに気を遣えば、十分に見られるようになりそうだ。
 ユアンは無邪気に寝ている青年武官の横に座るとしげしげと彼を眺めた。そういえば、彼のことを食い入るように見つめるクラトスの強い眼差しに負けて、ゆっくりクラトスの顔を見たことがなかった。あの真っ直ぐと何も期待せずに捧げられるだけの眼差しは心地よく、だが、心騒がすものだった。
 女からも男からも、欲望を秘めた熱い眼差しを浴びせかけられることには慣れっこだ。そのはずなのに、クラトスが捧げてくる無垢な想いは怖かった。それは、見知っている宮廷の幾重にも紗のかかった遠まわしな誘惑とは違い、痛々しいまでに露な想いでありながら、彼から何かを期待しているわけではなかった。
 有能なこの武官をこれ以上、引きずりまわすのはかわいそうだ。そんな気持ちが浮かんできた。寝ている顔は穏やかで、年相応に若く見えた。彼などと会っていなければ、王宮の迷路のような回廊の隅でかわいらしい侍女を相手に愛の言葉の一つでも囁けるのに。だが、そう考えると、なぜか、胸が痛かった。
 気づくと、青年に向って手が伸びていた。無造作に結われた赤い髪は今日一日が忙しかったことを教えるように、前髪がほつれ、目の辺りまで落ちていた。髪の影は真っ直ぐと通った鼻筋にかかり、うっすらと開いている形の良い口元に陰を落としている。
 愛おしい。そんな声が脳裏に響いた。危険だ。しかし、手は止まらず、落ちている前髪へと伸びた。
 クラトスは飛び起きた。何という失態。目の前に困惑したようにこちらを見ている軍師の顔があった。軍師の細く形のよい指が目の前をよぎり、慌てたように手が引っ込められた。
 何をしようとしたのだろう。この大事なときに、自分の想いを押し付けてはならない。このような場所で居眠りをさせるほど、この武官を個人的な心配事で使ってはならない。ユアンは自らに言い聞かせた。
 この半年の内に、南の街道を完全に手中に収めるためには、クラトスを王都に留め置くわけにはいかない。それどころか、前線を固める第三師団までの兵站も含め、整備をさせなくてはならない。それが、最優先事項のはずだ。
 軍師が心の中ですばやく決断を下していたその数秒の沈黙を勘違いしたクラトスはさらに頭を下げる。わざわざ、こちらまで運んでいただいているというのに、何の結果も出せず、それどころか、うかつに寝入ってしまうなど、この方に愛想をつかされてしまうかもしれない。
「このような失態、まことに申し訳ございません」
 クラトスが慌てて拝頭すると、ユアンはクラトスが寄りかかっていた机脇に座り、クラトスにも再度座るようにと促した。
「気にするな。お前もいろいろと疲れておろう」
 ユアンはいつも通り品のよいかすかな笑みを浮かべて、クラトスをねぎらった。クラトスはその声色にほっとする。優しく思いやりのこもった声は彼の心を暖かくした。
「いえ、もったいないお言葉、ありがとうございます」
 クラトスがその目に感謝の色を浮かべて、ユアンを見つめてくる。真っ直ぐにこちらを見る視線が苦しかった。もう、このきれいな琥珀色の目を当分見られないのかと思うと残念だった。だが、彼は帝国の軍師であり、クラトスは帝国の武官だ。共に優先すべきことがある。
「お前が私だけのために時間を作ってくれたことには感謝している。だが、もう、これ以上は無用だ。半年後には南の制圧に陛下もご出陣される。そのためにも、街道とその周辺の治安維持は急務だ。お前には本業に精を出してもらわねばならない」
 ユアンが調査の終わりを告げた。クラトスはその言葉にまるで思いもかけない別れを告げられた恋人のように、胸を絞られるような苦しさを感じた。
 青年武官が驚きに目を見開き、それから、ゆっくりと項垂れる姿にユアンも驚いた。クラトスがこんなに悄然とするとは思わなかった。何か言いたいことでもあるだろうか。ユアンは、自分がお前は役立たずだと言ったのではないかと、心の中で自らの言葉をさらってみた。
 ユアンが逡巡した数秒の沈黙に、だが、クラトスはあまりの衝撃に了解の答えさえ、返せなかった。
 ユアンは見たことのなかった武官の弱々しい姿に息を呑んだ。これ以上、側にいてはだめだ。口に出したこととは裏腹に、その落ちた肩を抱いてしまいそうだ。軍師は微動だにしない武官を見つめ、気づかれないようにかすかなため息を漏らすとゆらりと立ち上がった。
「今まで無理を言ってすまなかったな」
 そのまま、軍師は日暮れて薄暗くなった部屋を出て行った。クラトスはただ呆然と埃をかぶった床を見つめていた。ユアンの軽快な足音が部屋から遠ざかり、やがて聞こえなくなっても、彼は動けなかった。
 待ってください。もう、今までのようにお会いできないのですか。心の中で叫び、だが、拝頭しただけだった。うつむいていないと、帝国の軍人にもあるまじきことに、涙がこぼれてしまいそうだった。
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