唐桃

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後姿

 クラトスは都へと足を踏み入れるのは久しぶりだった。都から馬を飛ばして数日はかかる彼の郷との往復は近年決して楽な道行ではなかった。幼い頃は父と共に何度も往来していた街道は、皇帝の姉の急死以降、皇帝が政事へ興味を急激に失ったためか、治安が乱れ、大きな街道とはいえど、安心して旅することが難しくなっていた。
 この度の上洛は、不安定な帝国内でも荒れていた南東の郷で、不埒な賊を討ち、町を平定させた手腕を買われ、下士官職として都へと召しだされたからだった。
 郷長を長らくしていた彼の母の一族はもとより、都の下級貴族として立ち行かなくなって移住してきた彼の父の一族はついに復帰のときがきたとばかりに大喜びであった。
 クラトスが数名の侍従達と出入りの激しい大門をくぐり、都へと入った。最近の世情を反映してか、大門のあたりには近くから逃げ込んだとみえる農民達や商人たちでごった返しているかと思えば、うさんくさい傭兵や主を失ったような兵士たちがうろついている。
 成人に達したばかりの青年はその有様に顔をしかめた。遠くに威容を誇る王宮が真っ直ぐ中門を突き抜ける大路の先に見えた。この喧騒の中、旅の埃にまみれた一行は、相手としてくみしやすいとみたのか、旅宿の引き合いやら、都の案内やらを口にしながら、浮浪児たちがわらわらと取り囲んでくる。
「ほら、そこを退け。我らの宿は決まっている」
 侍従達が荷物を奪われまいと体をよじりながら子供達を追い払っている様にため息を落とし、クラトスは馬から飛び降りた。人より頭一つ分は抜きん出た偉丈夫のクラトスが立ちはだかれば、子供達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「都の秩序も嘆かわしいものだな」
 肩をすくめて、侍従の荷物を半分受け取ると、馬の手綱を引きながら、父から渡された紹介状を目当てに先へと向う。旅の埃に乱れたぼさぼさの赤髪をなでつけながら、侍従へとこぼした。
「こんなことでは、郷よりも安心していられないな」
「ですが、クラトス様にはあやつらも恐れ入ったようですな」
「単に若い男は避けているだけだろう。腰に剣も帯びているしな」
「何々、さすが、クラトス様です。あやつらも強いお方はすぐわかるのでしょうな」
 父の代から務めている初老の男はクラトスの後をぜーぜーと息を切らしながら追いかけてくる。その後ろを彼の付き人として昨年から勤めている小柄な少年がこれまた小走りについてきた。頼りない侍従達の様に首をふりながら、クラトスは歩みをゆるめた。
「私の腕など、都であれば、たいしたことはないだろう。私程度の者は大勢いるさ」
 しばらく北上し、そこから東へと道をすすむ。都の道は郷とは異なり碁盤目にきちんと整備されており、たちどころに目指す館は見つかった。


 朝早くに親類の館を出たはずなのに、クラトスが思っていたより王宮は遠かったらしい。やはり、里の町とは規模が違うなどと田舎からついてきた初老の奴婢に小声でもらしている間は良かった。春のときたま吹く強い風と巻き上がる埃のなか、ごった返した大通りを抜けるのは一苦労で、王宮の不老門をくぐるころには日はすっかりあがっていた。
 青年は、慌てて、郷で母に誂えてもらった濃紺の武官の正装を再度整え、風で乱れた髪を押さえると、奴婢を控え所においた。そこはすでに多くの人が出入りをしており、慌しい雰囲気がしていた。右も左も分からない彼と同様の新たに任官する者たちに取り囲まれた案内の文官からどうにか自身の任官式が行われる場所を聞き出す。おざなりに行き方を言う文官へ礼もそこそこに、教えられた六光宮へと、すぐさま向った。
 王宮の中心を取り巻くように巡らされている石造りの立派な回廊を巨大な太和殿の向こう側を目指して、早足に進む。回廊はまっすぐなように見えて、所々で曲がり、小さな門や横へと降りる階段、あるいは上下の回廊が交わる場所が続き、クラトスのような新参者には分かりにくい。
 周囲は、都の喧騒の中では見られなかった優雅な物腰の文官や見事な武器をもった兵士達が静かに行き交い、数人で固まって立ち話をしている女官たちも王宮に相応しい美しさだった。身に纏っている色とりどりの長い裳裾を引いた女官服は、絹で作られているのか軽く風にそよぎ、日に煌き、まるで高貴な姫君たちのように感じられる。
 郷を出るまでは、誇りにしていた己の血筋も得た栄誉もこの人を圧する巨大な建物と高貴な人々の間では何の価値も感じられなかった。
 気後れしたせいだろうか。それとも、郷では見たことも聞いたこともなかった麗しい人々やそれは立派な建物に気をとられていたせいだろうか。クラトスは複雑な通路に迷い、出向かなければならない場所とは違うところに足を踏み入れたことに気づいた。
 広大な王宮は慣れた郷の館とは違い、どこまでも続く長い壁とたまに不規則に穿たれた華麗な門が並び、慌てていたせいか、どこから来たのか、どこへ向おうとしているのかわからなくなった。丈の高い壁の向こうには、遠くに王宮の中心となる太和殿の屋根が見えるが、それ以外の建物は壁が邪魔ではっきりとしない。
 指示されたと思しき方向へ歩こうとすると、何を間違えたのか、進もうとする通路は突然狭くなり、続く壁は行く先で幾重にも折れ曲がり、袋小路のようになっている。人の気配もまばらとなり、いかにもひっそりとした雰囲気が漂っていた。
 任官式では、皇帝の前で宰相から直々にお呼び出しがあるはずだった。その時間に間に合わなければ、大失態だ。前だけを見て慌てて足を速めれば、まだ女官見習いだろうか、少女と思しき小柄な侍女とぶつかった。少女は朱塗りのいかにも高価そうな器に重そうな書類をいくつも乗せていたが、それは見事に通路へと散らばった。
「ああ、申し訳ありません」
 彼のことを上級武官と勘違いしたのだろうか。少女は深く拝頭する。
「こちらこそ、悪かった。道に迷って、前を見ていなかった。大丈夫か。さ、頭をあげて。お前の書類こそ、大切なものだろう」
 クラトスは散らばった巻物を拾い始めた。
「武官様、どうぞ、私がいたしますから、お気遣いなさらないでください」
「いや、私のせいだ。お前の上司に怒られたら、親衛隊に新任できたクラトスのせいだと言え。これで最後だ」
 少女がささげ持っている盆の上に埃を落とした巻物をのせてやった。
「クラトス様、ありがとうございます」
「礼なぞ、いい。私も時間がないからな。すまなかった」
 少女が頭を下げるのに返事をするのもそこそこに、クラトスは任官式へと急いだ。だが、入り組んで、見通しの悪い高い壁は、彼のいく手を阻んだ。あの少女へ道を尋ねればよかったとようやく気づいた頃に、朱塗りのいかにも貴人の住まうような豪勢な門の前で警備兵に止められた。
「何者だ。ここには陛下とご家族以外、立ち入ってはならぬ。退け」
 慌てて、頭を下げ、戻ろうとすると、かすかに涼やかな香が漂い、いかにも命令しなれた静かで、しかし、よく通る声が背後から聞こえた。
「この者は新しく任命された親衛隊のクラトスだ。新任のための任官式まで時間がないのであろう。通してやりなさい」
「は、しかし……」
「私が連れて行く。文句はなかろう。さ、お前はついてこい」
 警備兵が深く頭を下げるからには、皇帝に近しい人物なのだろう。慌てて振り向こうとするクラトスの前をさっと青く輝く長い髪の貴人が通り、そのまま奥へとスタスタ歩き出す。
「さきほど、私の侍女が世話になったそうだな。間に合ってよかった」
 動揺した彼は言葉もなくあたふたと後を追う。大層高い身分にあると思われるその貴人は後を必死でついていく彼のことなど気遣うこともなく、右へ左へと細い回廊を曲がり、見事な装飾が施された小さな扉を躊躇うことなく、何度もくぐっていく。
 背は周りよりも抜きん出て高いクラトスとも遜色なく、勢いよく進むその足取りと隙を見せない背中は相当の武人であることを感じさせた。だが、服装は文官が着るような長い服をはおり、髪も今までに目通りした将軍達とは異なり、結わずにそのまま下ろしている。
 見事に金銀の刺繍を施された長衣は、紺を基調にしており、唐草模様に囲まれた精緻な文様は皇帝の紋章に神聖とされる竜と雲が絡んでおり、身分の高さがうかがい知れた。
 失礼に当たらないように、名前をお伺いしなくては。そう思いながらも、足早に進む貴人を見失わないようにすることに精一杯でいるうちに、迷路のような後宮と思しき場所は過ぎた。
 身を屈めてようやく通れる潜り戸までくると、貴人は歩みを緩め、その戸に手をかけて、しばし考えるように首を傾げた。だが、扉をあけると自ら先に出、彼がついてくるのも待たずに、先の通路を進み始めた。
 前に数人の文官の姿が見えると、とたんに貴人はぴたりと足を止めた。慌てて彼も歩みを止めると、例の深く通る声が聞こえた。
「後は六光宮までこの通路を真っ直ぐにすすむがよい。不安ならあちらの文官に尋ねなさい」
 礼を言う間もなく、深く頭を下げたクラトスの前をその貴人は来たときと同じく足早に小さな潜り戸へ戻り、そのまま姿を消した。クラトスが慌てて頭を上げたときには、すらりとした影と美しい青い髪が閉まる戸の先にちらりと見えただけだった。
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