唐桃 番外編

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夏の離宮(終)

 息をするのも苦しいくらいの湿気に、ユアンは辟易としながら、池を見下ろした。蓮の花も、生き生きとした緑の葉も何も変わらずにそこにある。だが、クラトスは遠くに西にあり、彼は祈りを届けることも叶わない。
 宵闇が濃くなり、数年前の決して忘れらることのできないときと同じく、夏の月が東の方より白い姿を現そうとしている。濃紺の空低く、宵の明星がきらりと輝き、その脇に赤い星がまるで追いかけてくるかのように、瞬いている。
「何を見ているの」
 いつの間に現れたのか、背後から皇帝が声をかけてきた。
「陛下、見事な月の出でございます」
 軍師は丁寧に膝をつき、皇帝を迎える。
「お前達はあちらの道まで降りて警備をしろ」
 人払いをした皇帝は彼の前で立ち止まると、俯いている軍師の顔へと手を廻した。
「ユアン、お前と一緒に見たい」
「もちろん、仰せのままに……」
 軍師は立ち上がると、差し出された皇帝の手を軽く取った。ミトスは軍師の手が触れたかと思うと、そのまま手を強く握りこんで、軍師を自らのふところへと迎えた。
「月なんかに気を取られずに、私を見て」
 軍師はどうにか呼吸を乱さずに、皇帝の背へと己の腕を廻した。
「月より眩しいので、失礼いたしました。さあ、ご一緒に池に映る月を楽しみましょう」
 互いに作られた微笑を浮かべ、夜目にも艶やかな皇帝と軍師は東屋の端へと歩む。月と宵の明星のように二人は互いに異なる光を放ち、密やかに照らす先もまた違う。だが、今、肩を並べて鏡のように静かな水面の月を見入る。
 池に浮かび上がる満ちた月の姿は見事なまでに完璧な美しさでありながら、ほんのかすかな風で波立つ。それは、夜の静けさのように落ち着いて見えながら、もろくも崩れようとしている皇帝と軍師の姿そのものだ。
 軍師は腰に廻された皇帝の腕の力が徐々に強くなることを感じながら、瞬く赤い星にちらりと目をやった。夜半にも衰えない暑さのせいか、首筋を汗が流れ落ちていった。汗が体を伝わると同時に、ぬぐいきれない不安とかすかな恐怖が背筋をすり抜けていった。
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