唐桃 番外編

PREV | NEXT | INDEX

夏の離宮(七)

 虫の音が生い茂った草叢から聞こえてくる。日もとっぷりと暮れた池の縁を軍師がのんびりと灯篭を手に歩いている。その傍らに従っている武官は、彼をよく知る人ならいつもとは比べ物にならないほど憔悴していることがわかっただろう。だが、宵の木に囲まれた小道には、二人の姿しかない。
 地面のところどころに置かれた小さな灯篭の明りが、下生えの草陰をゆらりと道に映し出す。軍師から貸し与えられた服に身を包み、クラトスはゆっくりと軍師の傍らを歩く。腰にしっかりと回された腕が青年を支えている。
「ユアン様、大丈夫です。お離しください」
「誰も見ていない。お前と私とふたりきりだ」
「これは……」
「仕事のことは忘れろ。しかし、思ったとおりだ。その服は似合うな。お前にやろう。だが、王宮で普段に着てはだめだぞ」
「そんな畏れおおいことです。大切にさせていただきます」
「そういう意味ではない。その服を纏ったクラトスをみたら、他の者までクラトスの魅力に気づいてしまうからな。それは、私との逢瀬のときだけ着るのだ。よいな」
「ユアン様」
 文句を言いたげな武官の様子に、軍師は立ち止まると、灯篭を地に置き、恋人をしっかりと抱きしめた。
「クラトス、お前は何も分かっていない。私がどれほどお前のことを大切に思っているか。いや、それどころか、いつでも私の手の届くところに置いて、決して離したくないと思っていることを、まるで分かっていない」
「そのようなことをおっしゃっていただくと、勘違いします」
「今だけでいいから、勘違いしておくれ」
 ユアンの髪の中に、武官の顔が埋められ、背中に縋る腕に力が込められた。


 ぐるりと西に回ると、篝火が下げられた小さな木造の桟橋に小舟が止めてあった。竿を手にした下男が二人を案内すると、ユアンがそれを制した。
「竿は私に寄越して、お前はあちらに下がっていなさい。私達が戻ってくるまで、火が落ちないように気をつけていてくれ」
「ユアン様」
「クラトス、とっとと乗れ」
 小舟はゆっくりと岸を離れた。
「どうだ。私もなかなか操るのがうまいであろう」
「ユアン様、私がいたしますから、どうぞお手をお離しください」
 二人を乗せた舟がぐらりと揺れる。
「クラトス、おとなしくしていろ。今度、お前が暴れたら、二人とも池に落ちるぞ。だが、そうなると、私もお前も着替えねばならないな。案外、それもよいかもしれないな」
 不敵に笑う軍師の姿に、王都警備軍の准将は頭を垂れておとなしく舟の上に座りなおした。
「なんだ。私は構わないぞ」
「私は困ります。もう、あの、お相手できそうもありませんから……」
 昼間に散々軍師に愛されて、身動きもつらい武官がつぶやいた。いつもよりもそっけない返事をしても、昼間のことを思い出したのか、頬を赤らめ、揺らめく瞳でこちらを見る青年は、常日頃の態度からは想像もできないほど妖艶だ。
 軍師は丈の高い蓮の葉の間で舟を止めると、クラトスの方へと身を寄せる。
「そんな目で私を見るな。まだ、足りないのか。私はお前と一緒に過ごせるだけでいいのに……」
「ユアン様、なんということをおっしゃるのです」
 いいようにからかわれて、頬を染めた武官が抗議の声をあげる。
「冗談に決まっているだろう。お前の仕事の邪魔をそう何度もしては、嫌われてしまいそうだからね。それより、クラトス、静かにしろ。声など上げたら、他の者が不審に思うだろう」
 夕闇せまる初夏の池をひんやりとした風が吹き抜ける。宵の明星よりも煌めく濃紺の目がクラトスを捕らえ、青年は月明りの下、恥ずかしげに目伏せる。軍師の手がクラトスの髪を撫で、そのまま顔をしっかりと捉えると、望み通りの優しい口付けを与える。麗人の絹よりも滑らかな髪が青年の首筋へとするりとかかり、クラトスは請われる前からうっすらと口を開けて、忍び込んでくる舌先の感触に呻き声をもらした。
 そよぐ風に押し流されるように、小舟は茂る蓮の葉の奥へと入り込み、クラトスの身じろぎが軽く舟を揺らす。ちゃぷんと軽い波の音とざわりと葉が擦れる音だけが聞こえるなか、ふっと息は吐いて、軍師は大切な恋人の唇を開放した。クラトスがゆるりと目を開ければ、軍師が白い月の光を浴びて華やかな笑みを彼にだけ見せる。
 背後にある蓮の葉の上を数個の真珠が零れ落ちるように、月の光を浴びた露がころがる。閉じかけた淡い桃色の花が小舟の波にゆらりと揺れ、その影がユアンの整った面を過ぎる。遠くにある虹に手を伸ばすかのように、恐々とクラトスの手がユアンの頬に触れると、軍師はわずかに目を見開き、それから、クラトスの伸ばされた手の平へと口付けを落とした。


 ひとときの安らぎのなか、身を寄せ合う恋人達の動きに、池は漣を立て、蓮葉の奥から水鳥がぱさりと音を立てて、開けた水面へと泳ぎ出す。小さな波に月明りは砕け散り、金銀の小魚がさあっと水底へ潜り込んで行く。やがて静まる池の端で、蛙がひとしきり鳴く声だけが夜空に響いた。
PREV | NEXT | INDEX
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送