唐桃

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前夜(五)

 かすかに開いた窓から、朝早い寺院の鐘の音が遠く聞こえる。何かの気配に驚いたのだろうか。近くで鳥たちが飛び立つ羽音がした。まだ明けやらぬ空の曙が窓の隙間から見える。部屋の中はぼんやりとしか見えないほの暗さだ。
 クラトスはもう少しだけと温もりを求めて上掛けを手繰り寄せた。そのとたん、手は別の温かいものに触れ、また眠りを求めてクラトスはその心地よい温かさへとすり寄った。
「寒いか」
 肩に廻された腕の重みに急速に目が覚める。ほんのりと甘く、そのくせ清涼な彼の大好きな香に包まれた。体に纏わりつくするりとした感触は、絹のそれだった。冷たく無味乾燥な自分の寝台ではない。目の前に、ユアンの笑顔があった。胸の中に熱い物が溢れあがる。
「ユアン様」
 夢見ていたことは、現実の物となっても夢のようにふわふわしていた。愛しい人から呼びかけられて目覚める朝は、それこそ、詩人達に唄われる薔薇色の朝日を浴びる褥の恋人たちだけのはずだった。クラトスは慌ててもう一度目を瞑った。この喜びが幻と消えないように、息を止めた。
「うん、まだ眠いか。ゆっくりしていて大丈夫だ」
 目を瞑っても、耳元には変わらず愛しい人の声がした。それと一緒に、腰にも手がまわされ、何も纏っていない体を引き寄せられた。そのとたん、絹の手触りと思っていたものが、軍師の流れ落ちる髪の感触と知る。
「だが、そんな甘えた顔を朝から見せられてはたまらない。クラトス、私の名前をもう一度呼んでおくれ」
「ユアン様」
 もう一度目を開くと、やはり熱っぽくこちらを見るユアンの笑顔が目の前にあった。クラトスも抱え込まれていた腕を伸ばし、ユアンの背へと手を廻す。
「夢を見ていたのかと思いました。ユアン様のお姿を目覚めてすぐに拝見できるときがあるとは思ってもおりませんでしたので」
「私もだよ。温かくて、大切で、とても愛しいものが腕の中にあるのはいいことだ。準備もあるだろうが、もう少し私の側にいてくれ」
 抱き寄せられて、クラトスは目の前の白い肩に触れるだけの口付けを送った。こんな幸せを知ることができて良かった。かの人と出会ってから、彼はその存在さえ知らなかった多くのことを教えてもらった。あの最初の出会いで、凛とした後ろ姿を一生懸命追いかけたときから、ずっと教えられてばかりだ。
「ユアン様、ありがとうございます」
 口からついて出た言葉にユアンが笑った。
「先に礼を言われるとはな。まだ、お前に何も渡していない」
「いえ、たくさんのものをいただきました」
「そうか。お前には何もあげたことはないのに、本当に欲のないやつだな」
 軍師は擽ったそうな顔をして、半身を起こして、上からクラトスの顔を見つめた。
「お前は何も欲しがらないからな。たまに形ある物を渡してもいいだろうか」
 クラトスを下に押し倒し、その額に口付けを与えると、軍師は起き上がった。寝台の横の紫檀の脇机へと手を伸ばす。水差しでも取られるのかとぼんやり見るクラトスの前に小さな黒漆の小箱が差し出された。
 愛しあった後の乱れた床の上で見るには如何にも不似合いな美しい小箱にクラトスが怪訝そうにこちらを見る。ユアンは思ったとおりの恋人の反応に満足し、起き上がらせようとクラトスの手を引いた。
「お前が開けてみろ」
 クラトスの手に乗せられた箱は華奢で軽く、彼が手を握り締めたら壊れてしまいそうだった。恐る恐る上蓋を取ろうとすれば、横で見ていた軍師がまたおかしそうに笑った。
「何も危険な物は入っていない。そんなに恐々と触るな」
「いえ、私のような無作法者では、箱を壊してしまいそうで」
「壊しても構わない。たいして価値のあるものではない」
 黒漆の上に重なる季節の紅葉とその間を掻い潜るかのように飛ぶ蜻蛉を描き出された容器は、軍師以外の者であれば、それ自体が貴重な物として扱われるに違いない。価値がわからない奴といつも詰られるが、軍師も人のことは言えないと、クラトスはちらりとこちらに身を寄せている貴人を伺った。
 蓋は簡単に開き、浅い入れ物の中には白絹が重ねられた上に青と赤の貴石が並べて置かれていた。
「これは……」
「私からお前への贈り物だ」
「このような高価な物はいただけません」
「クラトス、もう少し私の話を聞け。お前が思っているほど高価な石ではない。妾姫に与えるような飾り物なら、もっと気をつかうが、これはお前のためだけに私が作ったものだ。当面、会えないだろう。これを私だと思って身につけてくれ。わずかだが、私の力をこめた。どうしても困ったときがあったら、呼んでくれ」
 見たこともないほど深く青い宝玉は、底知れない海のようでもあり、果てのない空のようにも輝いていた。このような貴石を知らないクラトスでも非常に高価なことは分かる。だが、大切な方が自ら彼のために誂えてくださったのだから、頂いても構わないだろう。
 クラトスが逡巡している間に、ユアンがクラトスの手に乗せている箱の中から、輝く氷のしずくのような石を取り出した。そして、クラトスを魅了するいつもの笑みを浮かべ、自らがそろそろとクラトスの首へと掛けてくれた。
 宝玉をつなぐ、それもまた凝った造りの皮紐がしんなりとクラトスの首のまとわりつき、ユアンの目のような透明で青く輝く宝玉が胸に滑り落ちた。冷たいはずの宝玉は裸の胸に触れると熱く感じられた。
「私もそれと対になる宝玉をお前だと思って持っているつもりだ」
 ユアンの手が残っていたきらりと赤く輝く宝玉をとった。
「どうだ。お前の目の色とそっくりだろう。これを見つけるのは苦労したぞ。クラトスの目の美しさは石では表せないからな」
「何をおっしゃるのです。ユアン様の目こそ、どんな宝玉よりもお美しいです」
「クラトス、ありがとう。だが、私には自分の目は見えないからね。だから、私にとって一番美しいのはお前のその瞳だよ。さあ、お前から私に掛けておくれ」
 帝国の武官らしく、冷静に過ごすはずだったその朝は、ユアンの言葉だけで胸いっぱいになった。クラトスはユアンの首に宝玉をかけると、そのまま手をユアンの首に廻し、白く滑らかの肩に頬を寄せた。後はただこみあげてくるものを抑えようと愛しい人に抱きついていた。
「ありがとうございます。頂いた石はユアン様と思って大切にします。絶対に、絶対に、私を忘れないでください」
 後は言葉にできず、掠れた声を、荒れる息を出さないようにと歯をくいしばり、強く縋りついた。いつものように笑われるかと思ったら、ユアンは何も言わず、クラトスのことを息もできないくらい強く抱きしめた。そして、朝日が昇り、朝食の準備ができたと侍女が告げに来るまで、ずっと彼の背を優しく撫でていた。


 晩秋の朝日がわずかに差し込む長春宮の食堂は、ユアンが好みそうな優しい風情の野草が飾られ、紫檀の長い卓の上に見事な白磁の器が並べられていた。
「こんなに何回も会っていたのに、夕食もそうだったが、朝食をお前と取るのも初めてだな」
 ユアンは昨晩はクラトスの体に這わせていた優美な指先で、皿から小さな果物を摘むと、青年の口へと運んだ。周りを見回すクラトスに構わず、細い指先がそれを押し込んだ。
「何を慌てている。人払いしてある」
 そういうなり、恥ずかしそうに頬を染めるクラトスの口をユアンが奪った。二人の舌の間で果物が弾け、甘酸っぱい味と口付けの熱が入り混じった。
 後はもう互いに無我夢中で繰り返し口付ける。それは、ユアンから与えられる約束であり、クラトスから差し出す誓いだった。昨晩から数え切れないほど口付けをした。
 やがて、軽く扉をたたく音がした。
「もう、時間か。せっかく用意してもらったのに、何も食べさせなかったな」
 クラトスは首をふった。互いに胸が一杯で何ものどをとおるわけがなかった。
「お名残惜しくはございますが、これにて出立いたします」
 膝を床につき、礼をする。差し出されたユアンの手をとり、最後になるかもしれない口付けを置いた。
「クラトス、必ず戻ってくるのだ」
 ユアンの通る声に深く頷き、互いの目を見合った。ちりっとクラトスの胸の上で宝玉が熱を持った。
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