唐桃

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西の古都(三)

 軍師がこのような席を途中ではずすことは、王宮では頻繁にあることなので、クラトスは何も聞かずに長官の館の奥へと案内する。背後をついて来る軍師の軽い足音が彼の耳に心地良かった。
「クラトス、どうして私の言ったとおりにしない」
 警備の近衛師団の兵が立っている前を通り過ぎたかと思うと、それまで同じく黙っていた軍師が声をかけてきた。クラトスは扉に手をかけたまま、振り返った。軍師の顔が目の前にあり、問い掛けられたことよりも、あまりに間近にある愛する人の気配にクラトスは動揺した。
「ユアン様、お部屋はこちらでございますが、……」
 訳のわからない文句を言う軍師を扉をあけて、先に通す。後から少し離れて入ろうとするクラトスの手を軍師は勢いよく引いたかと思うと、外の護衛に「誰も近づけるな」と言い、扉に鍵をかけた。
 酔いがさきほどから足に来ていたクラトスは、軍師に押されるままに奥の部屋にある寝台へとへなへなと座り込んだ。脇にこれまた勢いよく腰を下ろした軍師は、いきなりクラトスを寝床の上に押し倒した。
 二人の腰につけた剣が体の下でぶつかり、かちゃりと金属のすれる高い音がした。クラトスは困惑したように、軍師を押し返そうと体をわずかに起こしたが、上から強く軍師に押さえ込まれた。強いユアンの眼差しに、クラトスは足だけと思った酔いが全身に及ぶのを感じた。
「どうして、あのような強い酒を勢いよく飲む。お前に隙ができるから、隣の男はいい気になって、お前にすり寄っていたぞ」
 クラトスは、自分を詰る軍師の言葉に思わず驚き、目を見開いた。
「ユアン様、申し訳ありません。あの男は……」
 きっぱり否定するかと思ったクラトスが、口ごもりながら言い訳をする。理不尽な怒りが押し寄せ、性急に彼を求めているかのように、軍師は言いかけたクラトスの口を封じる。クラトスは半ば乱暴な、しかし、ひどく艶かしいユアンの口付けに夢中で応えた。
 愛しい人の首に手を廻らせ、クラトスは荒く息を吐く。さきほどの強い酒がいまごろになって効いてきたのだろうか。薄暗がりのなか、天蓋の木彫りの鳳凰がまるで生きているかのように、揺らいで見えた。やはり、浮ついた気分でいたから、あのような商人に付け入らせてしまった。
「ユアン様、帝国の軍人でありながら、あのような男の言葉を一度ならずも聞くような真似をして、お怒りもごもっともです」
 荒く息をつきながら、悄然とクラトスが謝る。軍師は絶句した。
「一度ならずも、……。お前、あの男と何度も会っているのか」
「申し訳ありません。それが、あの男、この町ではかなりの有力者ですので……」
「有力者であるなら、誰でもよいのか」
「あの、……。いえ、今日も断りを言うところでしたし」
「断らなかったことがあるのか」
「一回だけです。それに、ユアン様も前にほどほどに相手にすることも必要だとおっしゃられていたので、……。いえ、私が浅慮でした。すみません」
 軍師の責めるような言葉にクラトスは自分の行為を恥じ入った。軍師を跳ね除けるように起き上がったクラトスは、床に跪いて謝り始めた。その姿とクラトスの言葉に軍師は首をかしげる。
「私が……。私がそんな事を言ったか」
「ユアン様、本当に一回だけですし、そのときはこちらの名産の酒だったので、さすがにそれも受け取らないようでは、話のできない者と思われそうと判断しました。しかし、私は軍に属する者であり、この町の政治を預かっているわけではなかったのですから、今思えば」
「あ……。その……。クラトス、酒だけか」
 クラトスの言葉に勢いをなくしたように軍師が尋ねた。
「誓って、酒の甕を一つだけです。確かに、部下に与えましたが、あの、少し自分でも飲みました。しかし、だからと言って、あの男に王都警備隊が何かの便宜を図ったことなどございません。どうぞ、お信じください」
 軍師は自分の勘違いに気づき、言葉を切り天井を仰いだ。自分の行為を別の意味で深く後悔しているクラトスは床を見ていたので、その様子には気づかなかった。
「信じるも何も、お前を疑ったことなどないよ」
「しかし、……」
「すまなかった。誤解させたようだな。ああ、私が言いたかったのは、宴席での振舞いのことだ。ええと、……、とにかくそんなところにおらず、こちらに来い。酔いを醒ますために水でも飲め」
 軍師はなぜかがらりと態度を変えると、ゆっくりと優しくクラトスの手を取った。酔っているクラトスはその理由を考えることもなく、促されるままに立ち上がり、前の部屋へと戻った。
 これまたこちらの特産である精緻な浮き彫りのある木の卓に二人は並んで座った。用意されていた水差しを自ら手にとり、軍師が薄い紺地の椀に柑橘類を落とした飲み物をつぎ、クラトスの方へと押しやった。クラトスは押し頂くと、一気に飲んだ。喉をとおる水はかすかな酸味で気持ちよかった。
「お前は気づいていなかったのか。体が揺らいでいたぞ。大体、そんなに酒に弱いのなら人前で飲むな」
 確かに軍師が皇帝と共に上座で飲んでいるところは何度も見たことがあるが、酔った風情を漂わすことはなかった。それどころか、あれだけ酒を勧められ、口にしながら、いつもきちんとしていることに、クラトスは感心していた。さすが、皇帝とお身内は宴席でも乱れないものだと思っていた。
 今も、確かに長官に合わせて何度も杯を空けていたはずなのに、間近で見る軍師は頬が少し赤らんでいる以外、何も変わらない。そう思えば、口調もいつもより早いかもしれないが、彼のことを叱ってくださったせいかもしれない。
 気分よく酔われて、周りの方と話しておられるだけとばかり思っていたのに、彼の方を見てくださっていたのでろうか。気にかけていただいたのに、自分は恩知らずにも楽しそうに過ごしていらっしゃるこの方のことを恨んでしまった。
 なんと申し訳ないことをしたのだろう。それどころか、あのような輩に付け入らせていた。
 クラトスは軍師の言葉に感激の面持ちで答えた。
「ご注意、ありがとうございます。以後、気をつけます」
「その、私もちょっと言い過ぎたな……」
 軍師はいとも簡単に己の言葉を信じる忠実な恋人の感謝の眼差しに、胸の中がちくりと痛んだ。まるで、謝罪でもするかのように、クラトスの手を取ろうとし、だが、その寸前で手を止めた。
「いや、私たちは恋人なのだから、私の勝手ではいけないはずだ」
 自分に言い聞かすように、軍師はあらぬ方をみながら、つぶやいた。
「あの……」
 触れられずに止まった軍師の手にクラトスが静かに己の手を重ねた。いつもはひんやりとする軍師の手は思いの外、熱かった。
「すまない。クラトス、お前に真面目に答えられれば、答えられるほど、気まずい。自分が悪人になってしまったような気になる。さきほどのことは、私が……、私が悪かった。お前は何の落ち度もない。私の勘違いだ」
 大切な方が顔を頬を染めてクラトスの方を眺めれば、クラトスはその表情にうっとりとした。
「お前の横にいた男がだな、お前にいい寄っていると思ったのだ」
「私にいい寄るのですか。あの男が……」
 クラトスは有り得ないことを聞いた人がよくやるように、首をかしげ、聞き返した。
「そうだ。お前はちっとも分かっていない。どんなに自分が魅力的か分からずに、私の目の前で他の男と身を寄せ合って話すな。私がどんなに心配したことか……」
「私のことをユアン様が心配して下さったのですか」
 クラトスが嬉しそうに尋ねた。
 どうやら、ようやく事の次第が分かったらしい武官は、卓の上で重ねていた軍師の手をとると、自分の頬にその手を当てた。
「もっと、心配して下さい。私も、……。どうか、お許しください。私もユアン様がお側の方と楽しそうにお話しされるので、苦しく感じておりました」
 若い恋人は軍師の勘違いを詰るどころか、ひどく幸せそうな表情を浮かべて、彼を見つめてきた。
「そうか。お前もそう思っていてくれたのか。私もいつでも、心配している。本当にはらはらさせられてばかりだ。だが、すまない。お前だって、私と同じ気持ちでいてくれたのだな。それこそ、お前にいつも我慢してもらっているのに、私が怒ってはいけなかった。さきほどのことは、私こそ、許してほしい」
「許すなんて、ユアン様にご心配いただいただけで十分です」
 この方が自分のことで、少しでも嫉妬を感じてくださっていたとは、とても信じられない。ユアン様なら、誰しもが振り返るお姿だが、自分は田舎から出てきた風采の上がらない士官だ。それなのに、ご心配くださる。
 クラトスは軍師が少し頬を赤らめ、後ろめたそうにこちらを見ている姿に舞い上がりそうだった。あの席で、彼が軍師を想うと同じときに、彼のことを想っていて下さったのだ。
「ユアン様、……」
 勢いこんで、クラトスがさらに強く軍師の手を握りこんだ。
 そのとたん、扉をたたく音がした。
「ユアン様、ユアン様、アリシアでございます。いかがでございますか」
 自分が何をしようとのか気づいたクラトスが、ぱっと手を離す。その様に軍師は残念そうな吐息をはき、立ち上がった。クラトスは、酔いがさらに回ったかのように、さらに顔を赤くしたまま席で固まっていた。
「アリシア、わざわざありがとう」
 軍師が自ら扉を開けると、大事な娘に中に入るようにと身振りで示した。ちらりと部屋の中に目をやったアリシアは、その場で膝をかがめ、その誘いを遠慮した。
「ユアン様、お話の最中に申し訳ありませんでした。私、リーガル様にユアン様のご機嫌がよくなられたことをお伝えにまいります」
「アリシア、すまないね。その、リーガルには私が迷惑をかけたと伝えておいてくれ。それから、私のことを名前で呼ぶな」
「まあ、すっかりご機嫌になられましたのね。お父様、夜のお支度はいかがいたしましょう」
「今宵はもうよい」
「はい、お父様、クラトス様、お休みなさいませ」
 慌てて、クラトスも挨拶をしようと立ち上がったが、返事をする間もなく、扉は静かに閉じられた。
「もう、こんな時間になりましたか。私もいったん失礼を……」
 力の出ない足でクラトスが外に出ようとすると、軽く腰に手を回され、軍師にそれ以上の動きはさえぎられた。
「そうだな。こんな時間にわが娘といえども、お前との間を邪魔されるのは少々残念だった。せっかく、お前から何かしてくれそうだったのにな」
「ユアン様、何をおっしゃっるのですか」
「まだ、足元がふらついている。私の部屋で休んでいたほうがよい。これ以上時間を無駄にすることもない」
 軍師の器用な手がクラトスの腰から剣をとりあげ、己の剣と一緒に目の前の卓に置いた。クラトスが纏っていた濃紺に白地で皇帝旗を簡略にした竜の紋章が入った王都警備隊の正装が乱暴に卓の上に放り投げられ、その上に重なる軍師の絹の上着がしゃらりと音を立て、部屋に響いた。
「確かにもう夜も遅い。さあ、あちらでお前が私の物かどうか確かめさせておくれ」
 クラトスは、無言のまま、握られている手で愛しい方の手を握り返し、今度はゆっくりと奥の部屋へ二人は消えていった。
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