アビスのお話

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  愛しのトクナガ  

 与えられた部屋でごろんと横になってアニスは、いかにも高級感のある白塗りの天井を眺めた。ティアとナタリアは買い物があるとかで、ルークとガイを連れて外に出て行った。この部屋は、両親と一緒に暮らした薄暗い聖堂の中のごみごみとした家とは大違いだ。
 長い旅が続いて、いささかアニスも疲れていた。整った調度と品のよい壁紙、ラベンダー色の絨毯。どれも、観光客にとっては気持ちのよいものかもしれないが、今のアニスには寒々としたものに感じられる。ささくれ立った古い箪笥や、薄暗く低い天井の部屋が懐かしかった。
 はあとため息をついて、これまたひんやりとしたベッドカバーの上をころがる。雪の降り続く町は外の物音を吸い込んでしまうのか、部屋はしんとして、ときおりパチリと爆ぜる炉の音しかしない。
 小脇にトクナガを抱え込み、頬ずりをしてみた。戦いのパートナーはアニスの気持ちに反応するかのように、少しひんやりとしていた。皆がいるときには、こんな姿は見せられない。誰もいないときだけ、何も語らないトクナガにこっそりと胸のうちをつぶやく。
「おうちに帰りたいなぁ。こんな寒い場所、ちっとも楽しくなんかない。お父さんとお母さん、どうしてるかな。トクナガだってそうでしょ。もっと、暖かい場所じゃないと滅入ってくるよね」
「それはすみませんでしたね。私の故郷ではさぞかし気が滅入るでしょうね」
 今一番聞きたくない嫌味な中年男の声が背後から聞こえた。きっと、いつものようにきれいに整った顔に誂えたような笑顔を貼り付けているに違いない。アニスは声の方は振り向かず、トクナガに顔を埋めたまま、じっとしている。このまま、出て行って欲しいと無言で訴える。
「アニース。お元気ないようですが、どうされたのですか」
 こんなときに限って、ジェイドは立ち去らない。アニスはさらにトクナガに抱きついた。まったく、私だって悩みはある。それは、この町の雪のように静かにふわりと、しかし、止まずに積もっている。まさか、気づかれてしまったのだろうか。いや、イオン様にさえ、知られていないのだから、大丈夫。イオン様でさえ、騙してるんだ。こんな男は大丈夫。
 のろのろと起き上がるアニスの目の前に、ついとガラスの皿に入ったものが突き出された。
「大佐、人が休んでいるんですから、気をつかってもらえません」
「お休み中だからこそ、お疲れの方には甘い物でもと思って、持参したのですけれど、不要だったようですね」
 分かっているのか、分かっていないのか、大佐はそれこそ、いつも通りの絵に描いたような笑顔を浮かべて、こちらを見ている。この笑顔がくせ者だ。何を思っているのか、ちっとも分からない。
「何、ぼうっと見ているんです。アイス、ご不要なら、片付けましょう」
 慌ててアニスは皿に手を伸ばした。ああ、この男のように、四六時中こんな顔を出来るようになれば、もっと楽なのに。
「いやーー。大佐に気遣っていただくなんて、後が怖いな……って思っただけすよ。でも、溶けてしまってはもったいないですから、アニスちゃん、喜んでいただきます」
 ベッドの上に座り直し、アイスを食べるアニスの横にジェイドがぽんと座った。長い腕はアニスの後ろにころがるトクナガを摘み上げた。
「この人形、ずいぶんと汚れてきたんじゃないですか」
「大佐、何するんですか。私の愛しのトクナガに!  」
「おや、これは失礼いたしました。でも、もっと良い人形ができたと思うんですけどね。あなたのために」
「トクナガがいいんです」
「……」
 大佐はそれ以上何も言わず、トクナガを軽く宙に数回放り投げて、玩んだかと思うと、元あった場所へと返した。
「大佐、トクナガで遊ばないでください」
「すみませんね、この人形の秘密を知りたかっただけですよ」
「何にもありませんよぅ。このアニスちゃんの愛がトクナガに通じているんですからね」
「それは失礼いたしました」
 妙に物静かな表情でじっとアニスを見つめたかと思うと、ジェイドは空になった皿を取り上げ、立ち上がった。アニスはいつもとはどこか違う雰囲気に首をかしげる。
「大佐こそ、なんだか具合悪いんですか」
「私が……とんでもない」
「ふーーん。あ、アイスご馳走さま。じゃ、お礼にアニスちゃんが大佐をお買い物に連れていってあげましょう」
「何を言い出すんですか」
「大佐、ケテルブルク初めてのアニスちゃんの案内ができるんですよ。楽しいに決まっているじゃないですか」
 元気になったらしい少女はぴょんとベッドから飛び降りると、さっさと部屋を出ようとする。
「アニス、トクナガはいいんですか」
「トクナガはお留守番役なんです」
「では、しょうがない。お付き合いいたしますかね」
 大股で部屋を横切る大佐の背後で、トクナガが静かにベッドの上に転がっている。トクナガは何も語らない。だから、少女の後ろ姿に、目の前の男がにっこりと笑ったことも永遠の内緒だ。
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