アビスのお話

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  秘密の実験  

 日が早く落ちるから、もう部屋はすっかりと暗くなってきていた。薄暗くなれば、部屋の気温がそれだけで数度は下がったような気がして、小さな男の子はぶるりと身を震わせた。
「ねえ、ジェイド。暗くなったし、一緒に帰ろうよ」
「サフィール。先に帰れば。僕はまだ実験をしている最中だ」
「でも、一緒に帰ろうと約束したじゃないか」
「……」
 お前が勝手にそう決めただけだろうと返事をしかかったが、それも面倒でジェイドは手元の試験管の変化をじった見た。脇においた小型の計算機に、経過を入力していく。今日はおもしろそうなデータが取れそうだった。
「ジェイド……」
 心細くなった少年は近寄るなと言われているにも係らず、実験に夢中になっている憧れの友人にこっそりと近づいた。窓の外はもう真っ暗に見える。校舎の脇に立っている木が木枯らしにゆらゆらと揺れて、とても一人で帰る気にはなれなかった。それに、ここにいるのは、ジェイドと彼しかいない。二人きりになれる機会なんて滅多にないのだから、もう少し待ってもいいだろう。
 ジェイドはとても頭がいい。その上、背も大きくて、スポーツも何でもできる。話も面白いし、いつだって、周りを友達が取り囲んでいる。妹は、あのかわいくて優しいネフリーだ。
 少年は机に長い影を落としているほっそりとした後ろ姿を見つめた。こんなすごい子が僕のお友達なんだ。今日だって、実験をするのに、誘ってくれた。なんて、僕は幸運なんだろう。
 自分の幸運に酔っている少年は、そのすぐ先に落ちている不幸にまだ気づいていない。憧れの友人がわあっと感嘆の声を上げた瞬間、近寄るなという命令も忘れて、机の上の奇跡を一緒に見ようとサフィールは走り寄った。
 不器用な少年の体は、ジェイドの肘へと辺り、手に持っていた試験管の液は大きく跳ね飛んで、机へとぶちまけられた。
「何をするんだ」
「ああ、ごめんなさい」
 睨み付けられる目線の痛さに、慌ててサフィールは机にこぼれた液を拭こうとした。
「おい、触るな」
「え、でも」
「サフィール、僕が近づくなと言ったことを忘れていたのかい」
「ごめん。ジェイド」
「もう、お前と一緒に実験なんかするものか。せっかくのデータがパーじゃないか」
「ジェイド、許して」
 必死に謝る少年のことは、さして気にもならなかったが、失ったデータは惜しかった。こんなに微妙な実験はそうそう繰り返しできるものではない。今日はこれでおしまいだ。
「サフィール。ここを片付けて。もう今日はおしまいだ」
「本当にごめんね。明日、手伝うから。ね、ジェイド」
「いらないよ。お前がいても役になんて立たない」
「ジェイド……」
 泣きべそをかきながら、机を片付ける少年の指がぼんやりと燐光を放っていることにジェイドは気づいた。彼はにんまりと笑う。実験の邪魔をされたからには、少しは楽しませてもらわないといけない。
「ねぇ、サフィール。お前の指がとてもきれに光っているよ」
「あ、本当だ」
「その光はね。命の光なんだよ。それが光っているのを見ると、この辺りにいる霊たちがみな集まってくるんだ。僕はそれだから、試験管に入れていたのに、サフィールったら、触るから……。ほら、そこに影が!  」
 机を片付けようとしてた少年は背後を振り向き、黒い影が目に入ったとたん、とてつもない悲鳴を上げて、腰を抜かした。
「ジェイド、ジェイド、助けて……」
 黒い影は腰を抜かした少年の上にゆっくりとかぶさってくる。
「サフィール、悲鳴を上げちゃだめだよ。いいかい、静かにして目をつぶるんだ。僕がいいと言うまで目をあけちゃだめだよ。呪いがかかるからね」
 本気になって驚く少年の姿に噴出しそうになるのを堪えて、ジェイドは指示する。ああ、本当に馬鹿なやつ。ただの木の影だ。外の街灯のせいなのに、わかっていない。
 そっと忍び足で窓のブラインドを静かに閉め、薄暗くなった部屋の照明をつけてやる。
「もういいよ。サフィール。目をあけて」
 きつく目をつぶる少年をそのまま置いて帰ってしまおうかと思いながら、妹に叱られるのが嫌でジェイドは声をかける。
「ああ、ジェイド」
「ほら、もう大丈夫だ」
「ありがとう。ジェイド、大好きだ」
 飛び起きた少年は、涙で汚れた顔を喜びに輝かせて、汚れた手でジェイドに抱きついてきた。服が汚れるからと突き放そうとして、なぜか彼は思いとどまった。楽しいおもちゃは大切にしないと、すぐに壊れてしまう。こんな楽しい反応を見せてくれるのだから、少しは大切にしなくちゃね。どんな反応をするのか、いろいろと実験をしなくちゃならないから、今日は我慢しよう。
 自分の手を押しとどめたものが、きらりと感謝に光る少年の目のせいだとは、ジェイドは気づいてはいない。
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