七夕のお話 2010

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  流れ  

 大雨で増水した川は地響きにも似た低い音を立てる。濁った灰色の水面が橋桁の上部に迫ろうとしている。アニスは欄干に寄りかかり、濁流が蠢くさまを眺めていた。小さな木切れが浮き沈みしながら、流れに揉まれている。橋桁には、上流から流されてきたと思しき木の枝や木の葉が多数引っかかっている。木切れはうまく流れに乗ったかと思ったと思うと、隣から覆いかぶさる波に水の下へと沈められる。もう浮かび上がって来ないだろうと思った瞬間に、ふいと木切れはぷかりと水面に顔を出した。まるで、自分が溺れたかのように、アニスも木切れが現われたのに併せて、大きく息を吸った。
 だが、木っ端の前には次の難関が待ち構えている。流れに翻弄される木切れには分からないだろうが、橋桁で流れがせき止められているから、橋の上流側には複雑な渦が出来ている。浮いたり沈んだりしながら、木切れはどんどんと橋へと近づいてくる。まるで自分がその木っ端にしがみ付いている気分になって、アニスはごくりと息を呑んだ。このままでは、橋桁と橋桁の間に出来が大きな渦にと巻き込まれるに違いない。渦の外側の流れにまっすぐにぶつかると、木切れは波同士が干渉して起きた波飛沫に跳ね上げられ、橋桁前に積みあがった木の枝の山の上へと着地した。ふう、と我知らず、アニスは安堵の息をもらした。
 上から黒い影がアニスを覆った。
「アニース、まだ雨が降っているというのに、傘も持たずに何ぼんやりしているのですか」
 アニスの上へと黒い大きな傘が差しかけられた。
「あ、大佐……。川の流れがとても複雑で、いくら見ていても見飽きないんですよ」
 まさか、小さな木切れの動きに囚われたとは言えず、アニスは川の上流を指し示した。
「こんなに濁った川が観賞の価値があるとは思えませんね」
 それより、と大佐はぐいとアニスの手を握った。
「夏だからと言って、雨に濡れたままではいけませんよ。着衣が濡れると体温が下がります。もう唇の色が悪いですよ。ほら、手の爪だって白くなっている」
 大佐は傘をさしかけながら、アニスの手を己の手の平に乗せ、彼女の顔前へと押し付けた。予想もしない大佐の動きに、アニスはぱちぱちと目を瞬いた。
「あの、ちっとも寒くないし、前から私の爪はこんな色だと思うけど」
「そんなことはありません。あなたの爪はいつもは桜色してますよ」
 本人でもないくせに、大佐が断固として主張した。この男は何を言っているのだろう。私が自分で大丈夫だと言っているのに、とアニスは上目遣いで声無く不満であることを表明した。しかし、その程度でめげる大佐ではない。男の片手がアニスの上着のボタンにかけられた。
「な、何する気……」
 アニスは小さく叫び声をあげたが、轟々と流れる川の音にかき消されたのか、大佐は器用にボタンをはずしていく。
「あ、そうだ。この傘を持っていてください」
 ぱくぱくと鯉のように口を開け閉めするアニスを全く無視し、大佐はアニスの右手に傘の柄を押し付けた。アニスは否応もなく傘を握った。両手が空くと、大佐はしゃがみこみ、アニスの上着のボタンを全て外し終えた。それどころか、それに留まらず、大佐はアニスの上着を脱がせようとする。
「さ、傘を持っていますから、脱いで」
 こんな橋の上で、雨に濡れながら、服を脱ぐ趣味なんてアニスにはない。アニスが抵抗しようと身を捩ると、上着を脱ごうとしていると勘違いしたのか、大佐が片手でアニスの上着をうまく手から抜けるように持ち上げる。慌てて、アニスはその動きを止めようとした。しかし、相手の背の高さと力の強さには敵わない。あっさりと上着はアニスの腕を抜けた。
「私、上着着ていないと、寒いから」
「ほら、やはり寒いんでしょう」
 我が意を得たりと大佐が笑顔を見せ、有無を言わせずアニスの上着を引っぱり上げた。本人が寒いと言っているのに、脱がそうなんて、この男はとことんおかしいんじゃないの。すっかり動揺させられていたアニスは大佐が無言で傘を差し出すと、大人しく傘を受け取った。大佐はアニスが指しかける傘の中で身を軽く屈め、今度は自分の上着を脱ぎ始めた。私を脱がそうとするだけじゃなくて、自分も脱ぐわけなの。アニスは大佐の意図が分からず、きょろきょろと周囲を見渡した。生憎、救いを差し伸べる常識ある人の気配はどこにもない。
 小一時間前は当たりも見えないほどの大雨だったが、今はそれほどではない。だが、相変わらず雨は降り続いている。こんなところで、次は何をする気なの。アニスが身構えた瞬間に、彼女の肩にずしりと重たい大佐の上着が掛けられた。今まで着ていた人の体温が冷えた体に心地よかった。雷に打たれたように棒立ちになるアニスの手から再び大佐が傘を奪い取った。
「さ、すぐに腕を通しなさい。私の上着は濡れていませんし、あなたの上着と違って風を通しません。カイツールに戻るまではそれで我慢してください。さあ、戻りますよ」
 傘を持った腕にアニスの上着を掛け、空いた手でアニスの手を取ると、大佐はとっとと歩き出した。その勢いに、アニスは足をもつらせ、どうにか体勢を立て直した。
「ま、待って。まだ、笹を取っていないし。それに、私、この格好で戻るの」
 だぶだぶな上着の襟を片手でひっぱりながら、アニスは尋ねた。上から大佐がアニスをじろりと見下ろしている。
「この増水で笹は取れないでしょう。大体、今夜は大雨ですから、牛飼いも織姫も天上の神々はあなたの願いを叶えられませんよ。もちろん。風邪を引かれては困りますからね。それとも、私の上着はお気に召さないのですか」
 高圧的な口調で大佐に尋ねられて、そこで、お気に召しません、とは口が裂けても言えない。アニスは雨に濡れた子猫が身を震わせるように、首を左右に小さく振った。大佐が穴が開くほど彼女を見つめているのは気のせいだろうか。小さく首を縮め、アニスは恐々と大佐を見上げた。
「う……。ごめんなさい。でも大佐の上着だし……」
「だからこそ、ですよ。私の上着もあなたには結構似合いますよ」
 ほんのりと温まったアニスの体はかっと熱を帯びた。頬も赤くなっているに違いない。アニスは唇を震わせ、文句を言おうとしたが、何も出てこなかった。いや、何も出せなかった。易々とアニスを恐慌状態に陥れた元凶が、身を屈めるとその唇に口付けを与えたからだ。
「アニス、正確に言えば、私の理性を飛ばすぐらいには似合っていますよ。すぐに戻って来ないあなたには、相応の罰が必要ですが、この場ではこれでお仕舞いとしましょう。さあ、行きますよ」
「でも、今夜の笹飾りがないから」
 川沿いに笹を取りに来たつもりだったのに、増水していて取ることが出来なかった。未練がましく振り返ったアニスに、大佐が呆れたように声をかけた。
「夜中、またまた大雨だそうですよ。そもそも、晴れていたって、願いが叶うことないのに、何を雨の中で願うのですか。どうしても叶えたいのなら、私に言いなさい。出来るだけのはしてあげますよ。ついでに、私の願いはさして難しくないので、笹は不要です。それどころか、飾りつけしないですむだけ、あなたと二人の時間が無駄にならないわけで、それこそ、私の願いは叶ったも同然です。つまり、雨で良かったってことですね。それなのに、あなたと来たら、出て行ったまま、戻って来ないのだから」
 大佐は滔々とアニスを諭す。アニスは流れに揉まれていた小さな木切れが波の勢いでぽんと流れから飛び出した様を思い出した。まるで私みたい。くすりとアニスは笑った。濁った水に先が見えないまま流されていくはずだったのに、渦巻いた波頭に跳ね飛ばされたら、全く違う場所にいる。アニスの目の前にある黒いインナーの胸がぴたりと動きを止めた。アニスが話を聞いていないことに大佐が気づいたのだ。慌てて、ご機嫌伺いの笑みと共に上を見上げる。湿度の高さに曇った眼鏡の奥で、赤い瞳がぎらりと光った。
「アニース、私を待たせたあげくに迎えに来させ、さらに反省がないとは困った方ですねぇ。カイツールの宿に戻ったら、お仕置きです。覚悟してくださいね。さあ、行きますよ」
 今度こそ、アニスは手を引かれると、カイツールへと大人しく歩き出した。
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