七夕のお話 2009

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  天の川  

 降り続く雨は、軒を伝わり、樋から溢れ、地面の上をのたうつ蛇のように小さな流れを作る。火山から噴出す熱気に海の湿った風がぶつかり、ダアトは雨の季節を向かっている。参道から少しそれた小さな旅籠は、安普請のせいで若干傾いている。天気がよければ分からないが、この季節だ。傾いた屋根の上でシンバルのような音を立て、片方の軒先からだけ勢いよく飛沫が落ちている。おまけに、どこからともなく雨が沁みこんでくるのだろう。アニスが座っているテーブルの上に水滴が絶え間なく落ちる。しかも、張り出しテラスぎりぎりまでしか屋根が伸びていないから、ちょっと風が吹けば、雨が吹き込んでくる。
 雨が小降りになるまで、と腰を下ろしたアニスは、すでに頭からつま先まですっかり濡れている。これなら、無駄に時間をつぶさないで、雨の中を教団本部まで戻った方がいいかもしれない。所在無く、手の中で空になったグラスをくるりと回し、アニスは再び空を窺った。ねずみ色の空の果てに小さく光が見えた。びくりと首を竦めたアニスだったが、案に相違して、雷鳴はまだ遠く、屋根にたたきつけられる雨音に紛れて聞こえなかった。
 ああ、どうしよう。
 小さなテラスには数個のテーブルが出ているが、どれも雨宿りの人で一杯だ。アニスはどうにか確保した入り口際の椅子に腰掛けたまま、思案した。足下には、すっかり濡れそぼったバスケットが置かれている。可愛らしい花柄の布で飾られた籐の籠は、水を吸って、元の色が分からないほど濃い色になっている。こんなに急に天気が崩れると知っていたら、最初から、しっかりした木のバスケットを持って出たのだが、アニスが出かけるときは、まだ晴れていた。同僚の女の子達が、せっかく丘の上まで出かけるのなら、軽い籐の籠の方がおしゃれだと言ってくれた。その気になったアニスはかわいらしいナプキンをあしらい、内心得意になって出かけた。
 それなのに。
 空っぽのグラスの底に残った数滴のレモネードを思いっきりそっくり返って、喉に流し込んだ。珍しく力を入れて準備をすれば、お天気は大荒れだし、待ち人はやって来なかった。あんなに約束をしていたくせに、第三石碑の前でアニスをうんと待たせて、結局姿を現さなかった。ひょっとしたら、少し遅れるのかもしれない。そんな気がして、大きな雨粒が落ちてきても、しばらくそこに佇んでいた。おかげで、アニスも、おめかしした服も、きれいにカールさせた髪も、お気に入りの籐のバスケットも、腕を振るったお菓子も全部がびしょぬれになった。
 ばきん。
 予期しない雷鳴が轟く。雨宿りしている女の子がきゃっと悲鳴をあげ、アニスも慌てて耳を押えると身を縮めた。それが予告だったかのように、一際雨脚は激しくなった。目が眩むほど雷が光り、隣の声も聞こえないほどの雨音が響く。アニスの頬の上を生暖かい雫が流れた。これは、ぼろ屋根から落ちた雨の雫で、泣いてなんかいない。ポケットから湿ったハンカチを取り出し、手の平の中に握りこむと、目に押し当てた。
 がしゃん。
 側の木に雷が落ちたのだろう。耳をつんざくほどの衝撃音が響き、旅籠にいる人々は仲間同士で身を寄せ合う。連れのいないアニスは自分の体に両腕を回し、悲鳴をあげないように歯を喰いしばった。
 再び光が走る。
 ぎゅっと目を瞑ったアニスをかわいそうに思ったのだろうか。誰かがしっかりと抱きしめてくれた。アニスは衝撃音を聞かないようにと、硬い胸に顔を押し付ける。頬に触れた生地はびしょ濡れで冷たかったが、恐怖で火照ったアニスには心地よかった。ウールの湿った匂いに仄かに混じる淡い香がアニスの鼻をくすぐる。大きな手が優しくアニスの髪を撫でた。
「もう、大丈夫ですよ」
 聞きなれた低い声に、アニスは広い胸にさらにしがみ付いた。
「来ないと思った」
 小さくアニスが答える。彼女の髪を静かに撫でていた手が、そっと背中に回され、宥めるように軽くたたかれた。
「すみません。天候が悪化し、波が荒れたものですから、上陸する前に時間をくいました」
「こんなに大雨だから、今日は会えないかと思った」
「私がアニスとの約束を破ると思いますか」
 雷鳴が再び周囲を襲う。アニスは答えずに、一層しがみ付いてる手に力を入れた。
「七夕は単なる伝説です。私はあの牛飼いの間抜けのように、天の川で阻まれたからと言って、大人しく手をこまねいたりしませんよ。あなただって、そうでしょう」
 アニスはぱっと顔を上げ、不敵に笑う男の顔を見た。雷光が大佐の眼鏡に反射し、いかにも彼らしい言葉にアニスもふっと笑みをこぼした。
「川を渡る手段なんて、いくらでもあります。いかにも物覚えの悪そうなカササギなんか、待っている場合ではありません。天候だって関係ありませんよ」
「大佐ったら」
 夢の欠片もないことを言う男の胸を軽くたたき、アニスは今度は声を出して笑った。七夕の日に二人で星を見ましょう、と手紙を送ってきてくれたから、大佐もたまにはロマンチックな気分になるのだと思っていたが、どうやら、アニスの勘違いのようだ。
「ああ、少しだけ誤算がありました」
 ひょいとアニスを抱え上げ、今しがたまでアニスの座っていた椅子に大佐は腰を下ろす。
「あなたときたら、ちっとも星の位置を正確に覚えないから、今日こそはきっちり教えるつもりでしたのに。まぁ、七夕でなくとも、星空はいつだって見られますから、それは次の機会にしましょう」
 いかにも残念そうに大佐が言った。こんな人なんだから、期待しちゃ駄目なのだ。でも、とアニスは大佐の胸に寄りかかった。こんな天候なのに、どうやって船から降りたのだろう。周囲が暗くなるほどの土砂降りなのに、どうやってアニスを見つけたのだろう。確かに大佐だったら、天に横たわる川だって軽々と乗り越えて、アニスを探しにきてくれる違いない。
 雨音が一層激しくなり、周囲の気配を消す。まるで二人きりでいるかのように、大佐が再びアニスを固く抱きしめた。
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