七夕のお話 2008

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  星影  

 虫の音が途切れることなく続く。夜露に濡れた草は膝よりも高く、アニスはしっとりとした草に足をとられた。テオルの森は虫の音以外に生き物の気配はなく、静まり返っている。見上げる夜空は、茜色から濃紺へと色を変え、淡い色の月が地平線に姿を現すと同時に、多くの星が瞬き始めた。
 森を分け入れば、都のざわめきは遠のき、兵達が巡回する立派な石造りの門も宵闇の中に隠れている。昼間の熱気は高い空へと吸い込まれ、ひんやりした夜気がアニスを包み込む。月明かりもない細い道をアニスは慎重に下り、また登り返した。踏みしめる草の青い香に、アニスの吐息が重なった。
 それは大きな楡の木の下に広がっていた。
 真白なセレニアの花が誰にも知られずに咲いている。昇る月の淡い光に青い鬼火のように見えるそれは、木の周囲をぐるりと取り囲んでいた。この辺りでは唯一の群生地だ。アニスは柔らかく傷つきやすい花を踏まないようにと、細心の注意を払って、木の根元までたどりついた。
 地面に落ちた小枝を踏むと、虫達もぴたりと黙り込んだ。全くの静けさの中、アニスは腰を下ろし、空を見上げた。東から西へと長く白い星の帯が続いている。晴れ上がった空は、離ればなれになった伝説の恋人達にとって一年に一回の逢瀬を約束している。白い星の帯を過ぎる流れ星が、恋人達が出会う道の軌跡だと、幼いころに両親から聞いた。
 セレニアの花に囲まれ、アニスは目を閉じた。


 彼女の胸に大切にしまわれている面影が彼女の横で微笑んでいる。ダアトの大聖堂のテラスは高く、遠く海も見渡せた。吹き寄せる風で涼をとりながら、二人はテラスの柵に並んで立っていた。目の前には、晴れ上がった夜空がどこまでも広がっていた。
『どの星がアルタイルなのですか』
 柔らかい少年の声が尋ねた。
『ほら、その枝の先から、指五本分、まっすぐに伸ばしたところにある橙色の星ですよ』
『ああ、あれでしょうか。では、星の川の反対側にある白い星がベガですね』
 少年の問いに答えるように、ベガが瞬いて見えた。その脇をすっと流れ星が過ぎった。アニスは思わず歓声を上げた。
『ご覧になりましたか。流れ星がすぐそこを』
『何かいいことあるんですか』
『この日に流れ星を見ると、大切な恋人と必ず出会えるんですよ』
『おや、アニスには大切な方がいらっしゃるんですか』
『今はいませんけどぉ。アニスちゃんの大切な人がこの世のどこかにいて、きっと、うんと立派な玉の輿を準備しているってことですよ』
『それは良かったですね』
 くすくすと少年が笑った。
『ああ、イオン様、私の言うこと信じていないでしょう』
 アニスの文句に、少年は首を横に振った。
『信じていますよ。そして、僕も出会えるといいなと思っています』
 真面目な声音に少年を見上げれば、深い緑の目がアニスを釘付けにした。
『あ、あ、……』
 アニスはどもったまま、答えることができなかった。


 ぱっと目を見開くと、空を大きな流れ星が見事な線を引いた。
「わあ、きれい」
 誰へ言うでもなくアニスがつぶやくと、脇から低い男の声が答えた。
「探しましたよ」
「わぁ、乙女が一人きりでムードに浸っているときに邪魔しないでください」
 彼女の文句は見事に無視された。気配もなく現れた軍人は、断りもなくアニスの脇に座りこみ、にこりと彼女に笑いかけた。その笑みは、過去の切ない思い出を覆いつくす。
「ねえ、アニス、ご存知ですか」
「知らない。ところで、大佐、なんでここにいるの」
 どきりと弾む己の鼓動を隠すために、アニスはそっけなく問い返した。
「星がきれいに見える場所ですから」
「私が先に来たんだよ。普通、遠慮するでしょう」
 遠慮なく腰に回された手をアニスはぴしりと叩いた。
「夜に女性の一人歩きは感心しませんね。ましてや、それが自分の恋人ともなれば、心配するのが当然ではありませんか」
 性懲りもなく、男はアニスを抱き寄せた。
「それで、ご存知でしょう。今宵は『七夕』と呼ばれています。恋人と一緒に流れ星を見れば、二人は必ず幸せになるんですよ。せっかく、こんなに晴れ上がっていますからね。まことしやかな伝承が本当かどうか、あなたと一緒に確かめてみたいと思いましてね」
「全然、お呼びじゃないから」
 アニスはつんと横を向こうとしたが、敵もさるもの、がっしりと肩を掴み、彼女の耳元に囁いた。
「そんなつれないことを言わないでください。私の招待に応じたあなたじゃないですか」
「港の高級レストランでご馳走してくれるなんて言われたら、断れないじゃない」
「私だって、今宵は何人ものお誘いを断ったのですから、きちんと責任を取ってくださらないとねぇ」
「それはこっちの台詞……」
 とたんに、華奢な彼女の肩を掴む男の手に力が入った。
「大佐、痛いよ」
「誰です。あなたを誘う、ずうずうしい男は」
「へ……。何、大佐が怒ってるの。こっちが言いたいよ。誰のお誘いを誰が断ったんだって……」
 文句を紡ぐアニスの唇はたちまち男に塞がれた。抗議を込めて背中をたたいていた小さな手はその内、男の軍服の襟に縋りつく。周囲の虫の音も、さわさわと吹き寄せる風の葉擦れの音も、アニスには届かない。やがて、二人の熱い吐息が夜空へと広がり、長い抱擁を月だけが覗き込む。
 大木の上をいくつもの流れ星が通り過ぎ、恋人達の交わす眼差しへの彩りとなる。小さな手は大きな手に包まれ、ほろ苦い思い出は小さな胸の奥へと沈み込み、確かな想いがその上へと積み重なっていく。
 数匹の蛍がふわりと漂い、絡まりあう金と鋼の髪を照らして、夜空へと吸い込まれていった。
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