旅路

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睡蓮

 水音は軽く、小舟はゆっくりと水路を進む。
 雨季を過ぎ、あまねく晴れ渡った空がそのまま水に映え、川底の魚ものびのびと泳ぎ、藻が流れに沿ってたゆたう。たまに、水面の上を明るい日差しに照り映えた明るい藻の緑とそっくりなアマガエルがすいと泳いで、小舟の前を横切る。ユミルの森を思わせるような水路は更に森の中を両脇に菖蒲や石菖の今を盛りと咲き誇る花が続いたかと思うと、小舟を遮るようにコウホネの小さな白い花が水面の上に長く首を伸ばしている。たまに空を掻く櫂から飛び散るしずくは銀色の光跡を残しながら、水面へと吸い込まれる。
 これが、命のかかった逃避行であるとは、とても思えない。マーテルの長い髪がわずかに彼らを過ぎるそよ風に靡き、濃くなり始めた緑の木々を背景に明るく、彼女の顔を飾る。


「ミトスは大丈夫かしら」
 マーテルがほっとため息を落とし、小舟の進む先を見る。小枝で覆われた先で川は曲がっており、見通すことができない。
「心配はないはずだ。この前の町で連絡が付くように、伝言は置いてきた。そのまま、北へと向うはずだ。あちらには、友人も多いから、安全だ。それより、マーテル、お前を守るとミトスと誓った。だから、そんなに心配せずに気を楽にしていてくれ」
「ありがとう。ユアン。私なら大丈夫よ」
 口ではそう言いながらも、マーテルの顔は曇っている。
 ほんの数時間前、ついに戦場はそこまで迫り、反戦のために力を尽くしていた彼らは裏切り者として追われることになった。戦さが始まれば、そこは勝利による正義とその正義に裁かれる敗者しかいない。中途半端な立場はたちまちの内に敗者の側へと、許されない罪の者の地位へと追いやられる。
 ミトスは和平のために、あちらの陣営へと単身乗り込んでいた。マーテルはこちらの教会に働きかけていたが、どちらの努力も実を結ばないうちに戦火は燃え上がった。今は、義のない側に立つものは逃げるしかない。
 ユアンは今回の和平には最初から懐疑的で、何度かミトス達の説得をしたが、マーテルもミトスも頑なに和平への拘りを捨てなかった。そのときは、他国とのバランスを見ないふりをする彼らへのいらだちからか、彼らが拘る理由について考える余裕がなかった。だが、逃避行中のまさに今、彼らの拘りがわかったような気がする。
 彼らはこの土地の美しさと人々の素朴さにおそらく故郷を重ねていたに違いない。己を律するものを何も持たないユアンと違って、あの二人には彼らを育んだ豊かな大地と周りの人々への敬愛が、彼らの中にそのまま息づいているのだ。自然とにじみ出る彼らのまっすぐな生き方をたまに直視できず、目を背けてしまう自分が情けなかった。二人への説得も、斜めに物事を捉えて冷笑するような己では何の影響も与えられない。
 今もマーテルへの慰めを口にしたくとも、何を言っていいのかわからず、ちらとマーテルの顔に目を走らせながら、小舟を漕ぐことに集中する。


 数騎の馬が走る音が森に木霊す。
「ユアン、追手が近づいてきたのかしら」
「マーテル、静かに。こちらに我々が向ったとは気づいていないはずだ。おそらく、我々を捜索しているのではない。森向こうの村への伝令だ」
 小舟を丈の高い菖蒲の中に漕ぎいれると、二人で小舟の中へ屈む。騎馬はこちらへ向って進んでくるが、何かを探すように止まったり、歩みを緩めたりはしていない。想像通りに、かなりの速さで真っ直ぐと目手地へ進むのが、足音から読み取れる。
 近くの岸辺の藪から、その騒ぎに慌てたカイツブリの親子が飛び出し、水面をあたふたと低く飛んでいく。騎馬はその羽音に一瞬歩みを止めるが、水鳥は彼らとは反対方向へと低く飛び、その影を認めた兵達は、また、森の奥へと走り去った。


「驚かされたな。大丈夫か。マーテル」
「ええ」
 起き上がったマーテルの顔は、恐怖に少しだけ強張り、それでもその目は確かに彼を見つめ、そっと、微笑みを浮かべようとする。
「ユアン。ごめんなさい。ちょっとびっくりしただけだから、気にしないで。あなたこそ、私のことに気を使わないで。どうぞ、先を急ぎましょう」
 震える両手を胸の前で組み合わせて、健気に答えるマーテルの姿が彼の目を奪う。
 か弱く、ほんの一吹きの風で倒れそうに見えながら、その細くたおやかな体と精神は雪の重みにも耐えて、再度たちあがる若竹のようなしなやかさを秘めている。彼に信頼し、全てを預けながら、それでもただ頼るだけではなく、彼をできうる限り支えようとする意志を感じる。その姿にいったん目を引き付けられると、意識せずにはいられないマーテルの表情。いつから、こんなに気になっているのだろう。
 彼は再度櫂を握る手に力を込め、己の意識を回りの気配をうかがうようにと集中する。


 川は幅が狭くなり、流れが急になる。小舟の勢いは増し、予想以上に速く森の中を抜けようとする。水音に紛れて、遠く、さきほどの騎馬が戻ってくることに気づかないまま、小舟は流れの真ん中を下っていく。川へ張り出す木々の枝やたまにきまぐれに顔を出す小さな岩などを避けているうちに、いよいよ、瀬が速くなる場所にさしかかり、小さく段差が生じた場所で、マーテルが思わず叫び声をあげる。それと同時に騎馬が止まり、男の誰何する声が森の中に響いた。
「誰かいるのか」
「おい、どうした」
「今、人の叫び声が聞こえた」
 川に向って、馬の蹄の音がする。
 マーテルは口を押さえたまま、青ざめる。生憎、川のまわりは開けており、さきほどのように葦やヨシなどで身を隠せるような場所がない。蹄の音から数頭はいそうだ。彼も必死になって櫂を漕ぎながら、隠れ場所を探す。
 古い街道が川にそって作られ、その先に橋が見えてきた。もう、他に選択肢はないから、いちかばちかでその橋に向って必死に漕ぐ。わずかに湾曲した苔むした古い石橋の下に小舟を漕ぎいれ、そこに飛び出している橋脚に船を押し付けるように、櫂を川底へ刺す。ほとんど流れていないような川の上で船は固定される。
 マーテルを抱え、なるべく暗がりに二人の姿が入るようにと柱の影に身を寄せる。さきほど、通り過ぎた騎馬が戻ってくる足音がする。その足並みはゆっくりとしており、何かを探していることが分かる。恐怖に大きく見開いたマーテルの目が橋の向こうと上を交互に見ているのがわかる。さらに強く、自身の胸に抱き寄せる。マーテルが声を出さないようにと、自分の手で口元をしっかり押さえている。
 こんなときであるにも関わらず、震えをこらえるマーテルから漂う香に胸が苦しくなることを感じる。彼女の体が熱くてたまらない。橋の上をかつかつと音をたて、馬達が止まる気配を感じる。
「確かに聞こえた。人間の悲鳴のようだった」
 男の声がする。マーテルがその顔を彼の胸に押し付け、縋ってくる。背を宥めるように抱え、上の気配を探る。
「聞き間違えではないか。どこにも気配がない。大体、すでにこの森は往復したがどこにもやつらが入った形跡はなかった。道は一本だし、女連れの徒歩では我々より先に来られるはずがない」
「だが、……」
 そのとき、橋の先の木々の間から、カケスが一声鳴きながら、飛んでいく。
「なんだ。カケスじゃないか。騒がせるな」
「すまん。神経質なっているな。確かにあいつらが魔法使いとは言えども、ここまで来られるわけはないな」
 騎馬が向きを変え、彼らが脱出を図った町へと戻るのが分かる。二人は固く抱き合ったまま、何も音がしなくなるまで身じろぎ一つしない。


 森が薄闇に包まれ、木の葉の落ちる音以外しなくなって、初めて、彼はマーテルをしっかりと抱いていたことに気づいた。マーテルの息が、その鼓動が彼の胸に感じられる。
「もう大丈夫だ」
 だが、マーテルは離れる気配がない。彼の腕もマーテルを解放しない。
「ユアン。私、とても恐かったの」
 おずおずと、マーテルが彼の胸に押し付けていた顔を上げ、彼の目をひたと見つめる。薄暮の中で、涙を少し浮かべるマーテルの目は彼の意識を捉え、マーテルの息は彼の鼓動を止め、ぼうっと白く浮かび上がる美しい彼女の顔は彼の思考を奪う。ほんのわずかに開き、芳しい息を吐き出すそのふっくらとした薔薇色の唇から目をそらすことができない。
 何も語らず二人は互いを見つめ、静かに閉じられるマーテルの瞼のその端から零れ落ちる真珠のしずくの煌めきが唇にかかるそのとき、彼はその奇跡のしずくとともに彼女の唇に触れる。かすかに辛く、夢のように甘いその接吻はほんのわずかな触れ合いだけであったが、その力は、彼を今まで全く知らなかった熱い世界へと突き落とし、彼女に愛は怯えるものでも、躊躇うものでもないことを教える。突然、二人を取り巻く世界は変わり、もう、昨日の二人に戻ることはできない。
 やがて、彼は答える。
「マーテル。私が側にいる」


 川に流されるまま、小舟は下り、黙って寄り添う二人は手をそっと触れ合わせている。初夏の芳しい草の香が小舟の周りに漂い、やがて、川がぐるりと向きを変えるその浅瀬へと向う。
 小さな池のようになっているその浅瀬には、夕暮れの薄暗闇に光るように白い睡蓮がその花を閉じようとしている。彼の肩へ頭を預けたままのマーテルがその白く美しい指でその花達を指す。彼もさされるままに、花を眺め、それを指すマーテルの手を取り、熱い口付けを落とす<。
 誰にも壊すことのできない森の静寂と白く清楚な睡蓮の花々が、ひっそりと、だけど、すでに定められていたかように寄り添う二人の踏み出した一歩を祝福する。
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