収束

PREV | NEXT | INDEX

蜃気楼

 確かに目の前にあったと、この手がすぐ届くと信じたものは、触れようとした瞬間にまた遥か果ての地平線であやうげに揺らいでいる。まるで、砂漠の蜃気楼のように、近づいたかと思うと掻き消える。ほんのたまに訪れる彼の夢はその繰り返しだ。いつの間にか、その虚しさに慣れ、我が手に何もないことが当たり前だと思っていた。蜃気楼が見せる、まるでそこにあるかのような質感を伴ったものがいきなり失われるそのときの喪失感のみが、確かなことであると受け止めていた。


 彼がないと思いこんでいたものは、知られることもなく、ひっそりと在った。近づいても消えず、それはしっかりと大地に根ざし、損なわれることなく成長していた。二人で交わした剣の力強さがその存在の確かさを彼に教えてくれた。仲間と共に屈託なく笑い、悲しみに唇を噛み締め、苦しいときでも前を見続ける凛とした姿は、間違いなく、彼の前にあった。
 ユグドラシルに従い、救いの塔を後にし、デリス・カーラーンへと戻る道すがら、彼の脳裏を過ぎるあの茶色の目。二度と見ることは適わないと奥に封じ込めていた想いが全く色褪せずに彼の中にあることを教えてくれた。信じられないというように見開き、それでも、彼を信じたいというように瞬きを繰り返し、彼の剣の前に悲しみと怒りで伏せられた眼差しを何度も思い返す。


 わずか数ヶ月の旅を共にしただけなのに、その存在は一瞬にして彼を覆いつくし、彼の周りの深く冷たい暗闇を照らし、見ないままでいた事柄を露にし、もう打つことはなかったはずの彼自身の鼓動を呼び起こした。あの子の、あの旅の仲間達の悲しみと引き換えに、己の義務をただ果たそうとする健気な少女は、確かにマーテルではない。マーテルに成ることはあってはならない。共にいてわかった。彼女はまさに彼女自身としてすでに存在し、その存在はまた周りの存在と強く結びついている。
 彼らの犠牲で世界の統合が果たされることを是としてはならないと、遥か以前に誓いを交わした者をここに残して旅立ったときを思い出す。地上を彷徨い己が捜し求めていた事を、今こそ、なさねばならないはずだ。あの子の目の奥から、何にも代ることのない、決して思い出さないようにしながらも、その実、ひと時も忘れたことはなかった彼女の想いが伝わってくる。
 虚空の中で見えないものを求めていたはずが、よく見れば、そこに己が足でしっかり大地が支えてくれていたと気づいたかのように、激しいうねりに逆らって波とあらがっていたものが砂地に投げ出されてその揺ぎ無さを体全体で感じたかのように、今、彼のすべきことは明らかになり、その道は険しいが先が確かにあることを感じる。


 突然、歩みを止めたユグドラシルがゆっくりと彼へと振り返る。
「クラトス、お前がここまで神子を連れてきてくれたのに、せっかくのときに邪魔者が入ったな。なぜ、あの場に居合わせたのだろうな。わずかな者しか今日のことは知らなかったはずだ」
 ユグドラシルの目が強く彼を見据える。
「お前は何か知らないか。あの邪魔者達に見覚えはないか。確かにあいつらはハーフエルフだった」
 彼はゆっくりと首を横に振る。昨夜の襲撃を思えば、少なくとも、一人は確実に何が起こるか知っていたはずだ。それどころか、絶妙な間合いであの者達が現れたからには、この数百年の世界の交代自体を阻んでいるものが誰であるか、彼にはすでに隠そうともしていない。ユグドラシルの目を引かないためにも、また、相手もそれは望んでいないことを以前から知っているから、誓いあった者と行動を共にするわけにはいかない。しかし、すでに彼の奥底には定まった目標が生まれ、それはほんの僅かな間に彼を今まで支配されていたはずの場所とは異なるところへと道を作り始めている。
 ユグドラシルに気づかせてはならない。だから、いつもの通り、目をわずかに下に落とし、言葉も返さず、簡潔に態度のみで答える。
「我々の組織の中に内通者がいるのは間違いない。お前はずっと神子と行動を共にしていたから、今回はこちらのことまでは目が届かないであろう。お前からブロネーマを呼び出し、今までの経過を説明しておけ。後は私から具体的な指示は出す」
「御意」
 深く頭を下げる彼を前にして、ユグドラシルはその焦燥感を隠さない。
「あの神子には今までにない力を感じる。お前も一緒にいて感じただろう。同じようにお前の息子にも別の力を感じる。あれは何だ。さすがのお前でも息子は手にかけられなかったようだな。それで良かった。あの力は確かにそのままないものとするには惜しい。そうだろう。クラトス」
「神子の捜索に全力をあげるつもりだ。しかし、例の疾患の兆しがあるぞ」
 クラトスの言葉にユグドラシルはわずかに唇をゆがめ、冷たい笑みを浮かべたかと思うと、彼を揶揄するように答えを返し、姿を消す。
「クラトス、お前はまだ我々の同志のはずだな」
 息子のことは答えられない。あの子の力は尊い犠牲が生み出した石から引き出されたものだ。だが、あの子の力はあの石の力によるものだけではない。それどころか、彼らは気づいていないが、エクスフィアなどで引き出される力などたかがしれている。そのことは彼も目の当たりにするまで忘れていた。あの子は彼とあの人が願って止まなかったことをそのまま体現している。
 今はまだ幼い危うさと同居しているあの真っ直ぐな目線。
 互いに支えあいながら成長していこうとする姿勢。
 とうに忘れ去っていた、危機に満ちた長い旅には、自分達にも在ったもの。


 永劫に終わらない灼熱の苦しみのなか、果てのない蜃気楼に心を惑わせながら歩いているうちに旅人は力尽きるはずだった。しかし、予期しないそのとき、オアシスは奇跡として目の前に現れ、彼にひと時の癒しを与えた。
 乾いた砂漠はまだ果てしなく続いているとみえるが、その先におぼろに気配を漂わす地平線はこの砂漠にも終わりがあると告げている。もう、蜃気楼は現れない。


PREV | NEXT | INDEX
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送