収束
ハイマの夜
「そして、姫が海に身を躍らせると、その身は泡となり、海のうたかたと消えようとしました。ところが、天使たちがその泡をささえるではありませんか。天使達は口々に言います。この世界であなたへの涙が一つ流されるたびに、あなたの心は本物となり、やがてあなたは空の彼方に召されることができるのです」
愛しいものを刺すことが可能であるなら、とうの昔に刺していたであろうことに何故気づかなかったのだ。
狂気の計画を彼にうちあけ、愛した人の願いを曲げることを知り、ミトスの枕もとに立ち尽くしたときに、彼ののどへ手をやらなかったのは何故。
クラトスが立ち戻ってきたときに、かつての彼とは違う空っぽの男に刃を刺さなかったは何故。
ユアンは胸からしたたる血をおさえながら、夜闇の中をよろめく。
遥か以前にマーテルが静かな声で読んでいた童話が頭に響く。マーテルが止めたがっている。彼女はこれ以上の犠牲を望んでいない。
馬鹿なことをした。
クラトスに刃を向けることなぞ、できるはずがなかったのだ。しかも、彼が返す刃を避けることもしなかった。ひょっとして、自分はもう投げやりになってしまったのだろうか。
自問自答する。
いや、計画は進んでいる。神子を止めてなくてはいけない。
しかし、自らの手でクラトスを倒すことは適わない。
馬鹿な。
クラトスは思う。
あれは、ユアンだった。間違いない。だが、本気ではなかった。
かすかに薫る彼の香り。感じたマナの力。わずかながらも最初から急所をはずしていた刃。気づいて、勢いを押さえたつもりだったが、返した刃はどこかを切り裂く感触がした。ユアンの血のにおいだ。
なぜ、避けなかったのだ。この十数年、何度も機会があったのに、どうして、今なのだろう。
あの子に会う前であれば、きっと、身を任していたに違いない。
だが、今は、救わなければならないものが、解決せねばならない多くのものが目の前にあった。
押さえている手から血が零れ落ちる。
こんなにときが過ぎても、まだ、自分の血が赤いとは。今まで彼が犯してきた多くの死を贖うように、血は流れ続ける。
ここまで罪を犯しても、得ることのできない一つの死。胸の中が焼け付くようであったが、傷の痛みとは思えなかった。
ああ、自分は、まだ、彼に刃をつきたてられない。たとえ、愛するものが自分をとう想っていなかったとしても、愛するものをこの世から消すことはできない。
はるか昔に消え去っていたはずの感情が心の奥底からうかびあがり、彼をうちのめす。
これでは、肝心のものが得られない。だからこそ、ミトスも自分の行動に目をつぶっているに違いない。
別の方策があるはずだ。
遠く離れた場所で、互いに眠れない夜をすごしながら、夫々の思考が共鳴する。
まだ、絶望するには早い。
何か手段は残されている。
「ねぇ、ユアン」
無邪気な微笑みをうかべて、ミトスが近づいてくる。
「なんでしょうか。ユグドラシル様」
回りに誰もいないが、律儀に頭を下げる。
「ミトスと呼んでよ。
今度の神子は姉さまにとても合っているようだ。昨日、姉さまに会いに行って、その話を伝えたら、姉さまから涙がこぼれおちたよ。聞こえているのかな。
待ち遠しいね。
クラトスがのろのろと旅をしているからね。お前に護衛を頼めばよかったかな」
昔と同じままに見えて、その笑顔は、狂気の影りをちらつかせる。襟首をつかんで揺することで正気に戻せるのなら、そうもしようが、そのときはついぞ訪れなかった。
昨日の傷がうずくのに耐え、顔色を変えないように集中する。
世界のどこかであなたのために涙を流す人がいれば、やがて、あなたは天に召されるのです。
マーテル、必ずお前の望みに応えよう。
天には召されないことは遥か昔に承知している。
しかし、お前の涙に応えることはできるはずだ。