収束

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夜間飛行

 昼間の皮膚に刺すような熱さは日が落ちると急速に消え、全ての熱が何一つ妨げるものがない、その透明な夜空に吸い込まれたようにしんしんと冷える。砂漠の夜は身のおきどころがどこにもないほど茫漠と広い。
 慣れない旅を続けてきたせいで、一行は子供達もその引率者も正体なく眠っている。見張り番を引き受けた者とその前に座る生き物だけがみじろぎもせずに、だが、眠りもせず、黙って過ごしている。
 暖を取ろうと、わずかに寄せ集めた枯草や小さな柴の火ももう燃え尽きようとしている。最後の小枝を火に投げ込み、傭兵はぼんやりと先日の出来事を振り返る。


 気配を感じた。気配どころか、わずかに部屋に漂っていた残り香に思わず呼びかけてしまうところだった。
 やはり、動き出していたのかと、イセリアの聖堂での一件を思い返す。あのときも間一髪で間に入ることができたが、彼がわずかでも遅れたなら、神子はこの世から失われるところだったのだろうか。
 ユグドラシルも組織内から漏れ落ちる情報に危機を感じているらしく、本当に直前まで、彼にさえ神託を下すときを伝えなかった。だが、動き出した瞬間、相手も準備を整えていた。
 あのとき、聖堂の前でロイドとジーニアスが非力ながらも歯向かっていなかったら、彼の任務はそのときに終わっていただろう。そうであれば、何も知らずに、何もわからずにすんだ。互いを知ることなく終わったはずだ。その方が今のただの操り人形のような自分にはお似合いだった。
 だが、幸か不幸か、彼は神子の護衛に間に合ってしまい、結果、凍りついた彼の時間は一気に軋み始めた。
 知りたくないという願いと裏腹に、すでに知ってしまったことが、日々、彼の心の中で成長し、その固い殻から飛び出そうとしている。
 ジーニアスが彼らに救いを求めて走ってきたとき、その理由を聞いて、彼がどれだけ動揺したか気づかれなかったのは、ただ、他の者がそれ以上に動揺していたからに過ぎない。
「おろかなことをする」
 あのとき、口から出たのは、無鉄砲に幼馴染を追いかけてきた息子への叱責だろうか。それとも、力不足の剣士の卵への単純な怒りだったのだろうか。自分でもわからない。
 偶然と必然が重なり、事は彼の制御できないところへと転がり出している。



 ジーニアスに案内されて近づいた基地は砂漠の奥まった誰一人足を踏み入れない崖の際に作られていた。クラトスも地上に降り立つことはしばしばであったが、このような場所には足を踏み入れたことはなかった。そういうことだけは、考えぬき、抜け目なく準備することは知っていたから、驚きはしなかった。
 その分、警備の薄さは気になった。わざと侵入を許すかのような人の薄さは何だったのだろう。まるで、彼らが奥まで入ることを望んでいるかのように、わずかな人しか配置されていなかった。
 しかも、直前まであの部屋にいたことは、たちどころに分かった。最後に対峙した男には見覚えがあった。あちらの世界にいたときに、見かけたことがある。彼もあっさりと退いた。
 どういうつもりだったのだろう。
 分かることは、ロイドを殺すつもりはなかったということだ。そうであるなら、すでに生きているはずがない。大義を前にして命を奪うことに何の躊躇いもないことは知っている。例え、どんなに後悔するとしても、実行したことだろう。
 だとすれば、何が目的なのだろうか。何を考えているのだろう。以前なら、言葉を交わさずとも互いに分かり合えていたはずなのに、今は何一つ、分からない。こんなにも彼と離れてしまった自分をひどく淋しく感じる。


 会いたい。
 どうしても、会いたい。
 抑えきれない衝動に皆が眠っているのを良いことに飛び立つ。明りの一つとてない砂漠は彼の足元でその姿を闇に溶け込ませ、何も見えない。彼は一昨日にその存在を知った場所を目指す。
 冷たい夜風が向かいから吹きつけ、彼の進行を阻む。
 会って、何を話すのだろう。これ以上、息子に関わらないでほしいと縋るのだろうか。己のしたことを言わないで欲しいと泣きつけばいいのだろうか。神子を殺さずとも、代わりの方法があるはずだと頼み込むのだろうか。
 混乱した感情が冷えた大気の中に放出され、白い息となり、彼の周りを漂う。突然、砂漠の真ん中で止まる。
 何を考えていたのだろう。
 許されるとでも思ったのだろうか。
 分かってもらえると思ったのだろうか。
 自分にそんな資格があるのだろうか。


「ユアン様、申し訳ありません。さすがにクラトス様相手に、私一人では務まりませんでした」
 頭を下げる腹心の部下を慰める。
「気にするな。私が直接顔を合わすわけにもいかなかった。ボーダ。よくやってくれた。それで良かった。クラトスもレネゲードが動き出すと薄々予測していたはずだ。だとすれば、今、力付く押しても無駄だ。クラトスに力では勝てない。かえって、お前が怪我をしなくてよかった。あいつはこうなることを分かって護衛をしているのだから、守りきるはずだ。
 神子の身柄を手にいれる機会は必ず訪れる。ぎりぎりまで待て。
 それに、神子を手に入れずとも、ロイドさえ押さえれば、結果的には我々の目的には十分だ」
 信頼も篤い部下は彼の言葉に頷き、部屋を下がる。考え事を邪魔するようなことはしない。
 今回はただの警告だ。クラトスが神子の護衛に神経を使い、自らの息子に気をとられ、どこかで隙さえできれば、それでいいのだ。
 机の上の書類を無意味に繰る。
 そうではない。本当はクラトスに会いたい。会って、己の目的を自ら説明し、この真意を彼にだけはわかってほしい。
 だが、最初に神子の命を奪うために自らの手を汚したときから、それをクラトスにわかってもらえないことは、とうに理解している。彼のしていることに気づいたから、そして、それを認められなかったからこそ、ウィルガイアの冷たい部屋へ彼一人を残し、クラトスは去っていった。もどってきた男は全くの別人だった。
 だが、今日、あの部屋を去る直前に感じられた気配は以前の彼と同じだった。彼の息子のあの熱い熱気が凍りついた男をついに溶かしたのだろうか。彼ではなしえなかった癒しをとうとう与えてくれたのだろうか。
 気のせいだろうか。クラトスに呼ばれた気がする。まるで、彼の考えに呼応するかのように、クラトスのマナが震えるのを感じた。
 今の彼に会いたい。立ち上がり、しかし、また、腰を下ろす。会って、何をするつもりなのだ。
 クラトスに何を詫びればいいのだろう。彼が何よりも守りたかった家族が壊れるの傍観していたことだろうか。
 何を釈明するつもりなのだろう。数え切れぬ無抵抗な者を死においやるだけの無様な自分の生き方を分かってくれと、縋るのだろうか。
 何を訴えるつもりなのだろう。世界を救うために、息子達の未来のためにも、その命をくれと手をつくのだろうか。
 血に染まった手は、いかなる言葉を尽くしても、ただ赤いだけだ。


 唐突に行く先を失い、地に下りる。さきほどまでの駆り立てられるような切望感は消え、ちりちりとした焦りはまた底に静まった。
 何の気配もない、何の音もない、真っ暗な地の底のようでありながら、遥か先まで透明な空気に覆われたその場にただ立つ。見上げる先の一度たりとも数えきったことのない星たちが数百年前と変わらず瞬いている。
 高い砂丘の上で先を見れば、緩やかにうねる砂の波は暗闇の中に見えない地平線と夜空へと飲み込まれ、まるで、今の彼の心持のように判然としない。確かに立っているその足元の砂は、わずかな風に、さらさらと崩れ、風下へと崩れていく。その見下ろす砂丘の下は暗く何も見えないほど深い。だが、このわずかな風が誰も気づかないうちに、この確固としてあるように見える砂丘をゆっくりと突き崩し、底なしのような窪みは新たに落とされる砂に埋もれる。何も変わらぬように見える砂漠は刻々と変化し、誰も気づかぬうちに大きな変貌をとげる。
 暗闇に囲まれたこの高みでただ一人いることがひどく苦しく、しかし、一人で立つことに解き放たれた清々しさを覚える。
 夜の静寂を破り、突然、胸の中を熱いものがこみあげ、声が迸り出る。いまだかつて、出てこようともしなかったものが、このとき、動かぬ砂の海の上に、乾ききったこの大地へと吸い込まれるように零れ落ちる。
 何も出来なかった己が悲しく、
 何も変わっていない大地が痛々しく、
 前に現れない彼の香が苦しく、
 屈託のない息子の笑顔が眩しく、
 覚悟を決めている神子がいたわしく、
 彼の訪れを待っていたあの人の墓標が愛おしい。
 彼の周りに押し寄せてくる全てのことに揺さぶられ、表面に張り詰めた氷はその圧力で割れ、彼方へと流れ出した。もう思い出せない遥か以前から、流したことのなかったものが、後から後から溢れ出す。


 砂漠の東から真っ赤な日がゆらゆらと上がる。戻ってきた彼の気配に、生き物は伏せていた首をわずかにもたげ、以前と同じように、彼であることを確認すると、また前足の間へと頭をうずめた。
 ロイドとジーニアスは明け方の寒さが堪えたのか、身を寄せ合って寝ている。神子はこれまた引率者の腕に守られるかのように横たわっている。
 昨晩と同じ光景。でも、彼にとっては全てが新しい。
 危険をはらんでいても、どこか心弾むものがあった以前の旅と同じく、どこかに先へ、先へと促す声が聞こえる。あの人の声だろうか。それとも、この道のどこかで待っている彼なのだろうか。
 吹き寄せた風で、昨日辿ってきた足跡はすでに消え、砂の表面は新たに作られる道を待つかのように清められている。
 消え落ち、白くなった火の跡を見て、朝の支度のためにと、寝ている者達を起こさないよう、静かに火を起こす。
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