クルシス 十二ヶ月

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長月

 月が澄み渡った空にかかる。ま白く、翳り一つ無く、地上に青い影をまっすぐに落とす。マーテルは夏の名残を留める林の中をゆっくりと歩む。青い草の香が足元から立ち上がり、冷たい西風が彼女の髪を揺らがした。待ち人は来ず、不安は長く伸びる木々の影よりも濃くなる。どうにも立っておられず、マーテルは目の前の苔むした岩へと寄りかかった。
 冷たい岩に頬を押し付けると、まだ寒い季節でもないのに、ぞくりと肌が泡立った。そこにすぐに寄りかかることのできる温かい胸がないからだ。彼女よりもゆったりとした鼓動が感じられないからだ。彼女の不安を消してくれる確かな声がないからだ。冷たくなった指先は震え、感覚が消えてしまったようだ。この惑星の囁きも聞きとれず、静まり返った林の中は青く凍りついている。
 己の鼓動だけが耳を圧する。これ以上待たされたのなら、もうおかしくなってしまうかもしれない。あの人をこの手から失うことがあったのなら。マーテルは想像もしたことのなかった暗闇を前に、己が手を握りしめた。
 林の向こうから軽い足音が響く。
「ねえ様、待たせたね。ほら、ファンダリアの花だよ」
 差し出された小さな花は今まで見たどんな花よりも愛しく尊かった。マーテルは滅多にないことに、弟への感謝の言葉もなく、身を翻すと男の寝ている小屋へと急いだ。




 青白い月が歪んだ窓から差し込む。汗を掻いたユアンの肌を濡れた布で拭う。肌蹴られたユアンの体を、その上を彷徨うマーテルの手を月影が照らす。花の蜜は間に合い、ユアンの熱も下がった。だが、瀬戸際だった。燃えるような熱を三日も堪えていたからだろう。熱から解放されて気がついた婚約者は、彼女の名前を囁くと、再び眠りについた。穏やかな呼吸が彼の容態が落ち着いたことを教える。
 マーテルは脇においた桶の水に布を浸し、きっちりと絞った。もう一度、軽く男の胸や腕を拭いた。
 がっしりとした肩や筋肉の発達した胸が男の息使いと共にわずかだけ動いている。いくつもの傷痕が月の光に描かれたように白い筋を残している。マーテルは傷痕を丁寧になぞった。いくつかの傷は彼女が知らないときに出来たものだった。それ以外の大半の傷痕は彼女が癒しきれなかったときのものだ。そして、一番深い傷は彼女にはもちろん、彼自身も見えない場所に出来ていた。それが癒されるときは来るのだろうか。
「ユアン」
 小さな呼び声に眠っている男の睫毛が揺れた。だが、少し立てば穏やかな寝息が再び聞こえた。
「ごめんなさい」
 ミトスと彼女に会わなければ、この人は今とは全く違う生き方を選択していたのではないだろうか。まっすぐに強い心の中にある願いはささやかなものだ。穏やかに過ぎる日々の安寧と身近な者の幸せ。この人が真に欲しているものは、彼女と共にいては永遠に得られないかもしれない。彼女と過ごすとは、すなわち戦いの日々と同義語だ。
 だけど、とマーテルは最も最近出来た傷に口づけをした。彼女はずるくて、貪欲で、自分勝手だ。だから、この人が望むささやかな幸せを共に探してあげる振りをし続けることで、束縛している。彼が真に欲することを見つける手伝いをしている振りをして、こっそり美しい碧い目を手で覆っている。彼女から離れれば容易に手に入れられるかもしれない。しかし、マーテルは藪に隠れて姿の見えない小鳥たちのように、小さな平穏が奏でる調べは教えても、数多の争いの影で見え隠れするその存在を伝えることはない。
 本当に見つけられてしまったら。彼女では与えられない穏やかな日々を過ごす相手に巡り合ってしまったら。彼の傍に彼女がいられなくなってしまったら。そう考えると、切り立った崖の際から下を覗き込むように足が震えた。息が止まりそうになる。
「私は卑怯よね」
 彼女のためにここまで傷ついているのに、マーテルに出来ることはこの男をさらに戦いに駆り立てるだけだ。少しでも余裕ができて、ほんのわずかでもこの人の目が他を彷徨ったら、気付かれてしまうかもしれない。だから、決してそんな余裕がないように、耳元で囁いている。果てしなく遠い彼女の理想を。大樹を蘇らせた先に繋がる誰しもが平等に生きる世界。山の向こうにかかる虹のように、理想の世界、そこには到達できないかもしれない。
 そのときはそれでいい。倦み付かれたあなたが私の元に横たわっているだけでいい。彼の目が彼女さえ映してくれれば、他に何も見えなくなってくれれば、それでいい。
「あなたが私のことを想い続けてくれるなら、私はそれでいいの」
 小さな望みの大それた呪い。優しいあなたが何も気づかず、私だけ見ていてくれるなら、この世界だってどうなってもいいの。私が声高に明日の世界を語るのは、あなたが私を見ていてくれるから。たったそれだけ。誰にも言えない私だけの秘密。彼女を崇めたてまつる彼への冒涜。
「ユアン、大好きよ」
 女神の言葉は男の耳に滴り落ち、ぐるりと男の体を巡る鎖となる。目にも見えず、音も立てず、何の重さもなく、だけど解けない鎖。
 囁く甘い声に青い髪が揺れ、ゆっくりと眦が開いた。
「マーテル、愛しているよ」
 常にも耳に心地よい男の声が明瞭に伝える。彼女が与える甘すぎる毒は男の唇を通して清涼な滴となり、再び彼女へと戻ってくる。しっかりした長い指がマーテルの髪を探り、彼女の顔を確める。その手に導かれるまま、彼女は目を閉じた。秘かな吐息が彼女の唇を擽り、息をのむ間もなく、飛び上がるほど熱い口づけが与えられた。
 見えない鎖は互いの体に絡み付き、何一つとして入り込む隙はない。ほほ笑む青年は鎖の存在に気付かず、女神をさらに強く掻き抱いた。決してお前を放しはしないと囁く唇が、誰にも支配されていないことを女神もまた気づいていない。
 絡み合う二人の白い指先を、寝台から零れ落ちる緑と青の絹糸を清らかな月の光だけが照らす。 
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