転回

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砂州

 長い砂浜のその先に僅かに突き出した岬の内にその寒村はある。ほんの数軒の家が集落を形作り、岬と先に見える島の間の狭い海峡にある海の幸を糧に生計を立てている。
 春先の海峡は、霞がかかり、遠くまで見通せない。しかし、冬の冷たい風はやわらぎ、岬からさらに突き出している砂州に打ち寄せる波も穏やかになってきている。
 滅多に旅人も訪れないひっそりとしたその村に、身重の妻を抱えた青年が立ち寄ったのはほんの先週だ。身寄りのないらしい二人がこれから迎える大切なときのために、貧しいながらも他人を思いやることを忘れていない村人たちが、どうにか小さな小屋を融通してやる。何人もの子を育ててきた漁師のおかみさんが、使い古しの産着やら待ちわびられている者へ必要なものを揃えてやる。


 夜のしじまを破って、波が繰り返し打ち寄せる音が聞こえる。二部屋しかない朽ちかけた小屋は、まだ冷たい隙間風がどこからか通っていく。
 クラトスは夜通し炉の火に気を配り、産後すぐで臥せっている妻とその横で弱々しげに泣く小さな息子を見守る。
 数歩で横切ることのできるその小さな部屋では、壁の端に申し訳に作られた小さな炉の火で照らされている。さきほどまで、彼には理解できない理由でぐずっていた赤ん坊は、やはり、彼と同じく初めての子育てに戸惑い、疲れて寝入った妻の脇で、わずかにぐずり声を出しながら、それでも、夢の中に入ろうとしている。
 炉の中の太い丸太の上に、山でかき集めてきた小ぶりな粗朶の束を乗せ、隣の町の産婆に言われたとおりに、湯を沸かす。揺ら揺らと上がる湯気の影が炉の上に干してある赤ん坊の粗末な衣服へと映されて、さらには、低い天井へと広がる。
 その場のどこもが間に合わせであるにも関わらず、彼にとって、この空間は神聖にして豊かな実りの場である。愛おしいという言葉をこんなにも心の奥底から実感できたのは、一体、いつだっただろうか。守るということを、ここまで切々と己の心に湧き上がったのはいつのことだろうか。崩れ落ちそうな薪の燃えさしの暖かさが体全体に広がる。
 寝入った妻の慎ましやかな横顔がこれほどまでに神々しいと今まで気づかなかった。血の気の落ちた白い顔に乱れた髪の一部がかかり、わずかに開いた小ぶりな唇とすっと通った鼻筋に長く艶やかな睫とその影が見せる表情は慈しみに溢れている。
 赤ん坊へと寄せている、荒れて生活の苦労を感じさせる小さなその手に唇を寄せ、感謝の言葉を声に出さずに送る。その横に眠る生まれたばかりの息子の小さな指は、遥か昔に彼の家にあった精巧な象牙の細工のようである。触れれば壊れそうなほど細やかでありながら、確かに血が通い、しっかりと彼の指を握る力強さに息をのむほどの喜びを感じる。


 明け方、守らねばならない二人が熟睡していることを確かめ、外へと出る。
 この喜びを分かちあえたはずの家族はすでに過去の霧の中にあり、同じく、真っ先にこの喜びを伝えたい彼の永遠の同志である人も遥か遠くにある。
 それでも、誰へともなくこの感動を露にしたいという衝動を抑えがたく、日の昇る方へと伸びる砂州を先へと歩む。
 霞んだ海の向こうへ朝日が昇る。いまだかつて、王国にあっても神へ祈ったりしたことはなかったが、今は素直に頭を垂れ、自然の恩寵への感謝を捧げる。春の到来を告げる海を渡ってくるまだ冷たい東風の音も、岩場に遊ぶイソヒヨドリ の鋭い声も、波が繰り返すその単調な音さえもが、彼とともに、春と生の喜びに満たされている。
 砂州の果てで、ただ、立ち尽くす。






試練(ヒヨコクラブがほしい)



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