迷走

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想い(1)

 互いに忙しい。だから、常に側にいるわけはいかないし、実際、すれ違い様に人の目を忍んでかすかに唇を合わせるときの方が、胸が高まるかもしれない。
 愛しい者との間で想いを通じるということが一筋縄ではいかないことは百も承知である。だけど、相手の全てを知りたいと、心ゆくまで己を分かって欲しいとつい愛しい者が許してくれる内側まで入り込みたくなってしまう。
 大切な人が側にいると、突然どうしても離せなくなってしまうときがある。そうかと思うと、相手が自分をどう考えているのか、分からなくなってしまい、ひどく戸惑うときがある。自分の気のせいだと言い聞かせながらも、相手のわずかな仕草に一喜一憂する。
 決して手に入らないと分かっていた以前の方が、ここまで苦しくなかったと感じるのは、彼を求める自分の心がそれだけ貪欲になってしまったからだろうか。たまに、己の心を素直に伝えられない自分にほとほと嫌気が差す。こんなに彼をがんじがらめに己に縛り付けたいと思っていいのだろうか。真っ直ぐ、ユアンの顔を見ることができない。


 もう思い出せないくらい以前から、ユアンが好きだった。初めて会ったときに、自分の心のどこかを掠め取られてしまったとしか思えない。これが恋だと気づけないほど幼いときに彼は心の中に住み着いてしまった。
 ほんの子供だったときは、少し離れた場所から、それを恋する者の思慕や嫉妬だとは知らぬままに、胸の奥底を傷めつける苦い感情と共に、彼を見つめて過ごしてきた。そのようなことが当たり前に誰にでも在ると知ったときには、すでに彼に自分の想いを語ることは許されなかったし、自らも表には出さないと誓ってきた。
 最初は自分の感情に抗った。たまたまユアンが以前のように側にいるから、消えたはずの感情があると思っているだけなのだと、想いを捧げてくれる者が現れれば全てが消えるはずだと、自分の情熱を受け止めてくれる相手は別にいるはずだと、言い聞かせ続けた。だから、女でも男でも、近づいてきてくれた者を拒むことはなかった。しかし、愛を囁いてくれていたはずの相手は気づくと去っていった。
 ある日、それまでで一番長く続いていた愛人に面と向って言われた。彼のことは自分なりに愛していると思い込んでいたが、それが大きな誤りだったことを教えてくれた。
「あなたはひどい人だ。優しく、いかにも私のことを気遣う振りをして、私の気持ちにはちっとも気づいていない。私の心の内に何も関心を持ってくれない。私が心をこめて言ったときにも、今のようにただの習慣となって言っても、いや、憎しみを込めて言ったとしても、同じよう調子で、鸚鵡返しに愛を囁き返すことが、どんなに残酷なことなのか気づいていない」
 彼には感謝している。己の心を偽ってはいけないことを、己を偽るために他人を利用することが最も許されない行為であることを教えてくれた。きっと、真剣に自分を愛してくれていた。そうでなければ、他の者達のように黙って去っていっただろう。
「こんなことを言わせてすまなかった。私が至らなかった。お前には悪いことをした。私達は、もう一度、やり直せないだろうか」
 問い返すと、その男は今まで見たこともない生真面目な顔で答えてくれた。
「そう言ってくれる誠実なあなたが好きだ。だけど、真っ直ぐなあなたを愛している。だから、これ以上、私のために自分をごまかさないでほしい。そんなあなたは見ていられない」
 その後は二度と同じ事を繰り返さないと誓った。素直にユアンを愛しているのだと心の内に認めた瞬間に、ひどく楽になった気がした。何も与えられなくとも、相手にそれを捧げられなくとも、ただ、自分の中にあるものを自ら認められることに安堵した。


 どうしたことだろうか。
 偽ってはいけないと教えられたのに、自らもそうだと納得したはずなのに、今、突然、解き放たれても、自分の心が自由に、自然に振舞うことを躊躇う。長い間、寝台に留め置かれた病人のように、立ち上がりたいのに動けず、先に進みたいのに、その一歩が踏み出せない。
 とても会いたいのに、たまにユアンに会うのが苦しくなる。目の前の彼に、まるで聞き分けのない子供のようにずっと縋ろうとするみっともない自分を見せたくない。愛し合った後に部屋を出て行こうとする彼に、いかないでくれと、女々しくつぶやく姿を見せたくない。
 遠くに見える青い色が見えると、のどが詰まったようになって、声を掛けられない。触れたいけれど、払われたらと思うと手が伸ばせない。見つめていたいが、目を反らされたらと思うと恐い。
 しかし、会えないともっと苦しい。そんなときは、喉を締め付けられるような息苦しさを抱えて、一人で過ごした眠れない以前の夜のように、彼を心に思い浮かべてみる。凍てつく大地と何も返さない星空へだけ心の内を告げて過ごしたあの時間と同じように、己の想いを虚空へと吐き出す。


 ユアンの目が好きだ。どこまでも青く、澄んでいて、いくら見ていてもあきない。長い睫の隙から彼の瞳が自分を見つめていると感じると、それだけで嬉しい。
 彼の長い髪が好きだ。その果てが見えないほど晴れ上がった夏の空を思わせるそのさわやかな色と自分にはない絹のようにさらりとしているその感触が肌に心地よい。
 彼の白く長い指が好きだ。その指が竪琴の弦を軽くはじく優美な所作と生み出される音が自分をいざなう幻の世界に魅了される。
 彼の薄く整った唇が好きだ。少しだけ己より冷たいその唇がわずかに暖かい息を吐き出しながら肌に寄せられると、触れられた箇所から消すことのできない熱が生み出される。
 彼の声が好きだ。戦略の概要を的確に説明する落ち着いた声もいいが、優しく静かに、己の名を繰り返し呼ばれるとき、体はもう動けない。互いに横たわり、たわいものない語り合いを続けながら、その声に酔う。
 彼の言葉が好きだ。これから立ち向かわなければならない厚い壁の前で躊躇う者を奮い立たせるための、考え抜かれた言葉に頷かされ、それ以上に何でもない日常で、彼自身が気づかぬうちに洩れこぼす、思い遣りに溢れた一言に振り返る。
 彼の全てが好きだ。初めて出会ったときに感じた、自分を包み込むような彼のマナの暖かさは、今も変わらない。


 全てを曝け出す勇気のない自分をもてあまし、何も返ってこない己の部屋の壁に向ってしか言葉を出せない滑稽な姿にため息をもらす。二人で共に過ごす温かさを知った後の一人の夜は長い。
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